青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

けらえいこ『あたしンち』


あたしンち』は素晴らしい、心から素晴らしい作品だ。心がしんどくなった時に摂取するカルチャーというものがあって、そのラインナップ(他にはアニメ『キテレツ大百科』やQ.B.B.中学生日記』などがある)に常に鎮座しているし、そんなものとは関係なしに、ついつい本棚から手に取ってしまえる“気楽さ”とか“親密さ”のようなものが作品に備わっていて、色んな場所で、それこそお風呂やトイレなんかにも連れ出してはパラパラとページをめくっている。たぶん人生で1番読み返している漫画だと思う。『あたしンち』を読むということはわたしの中で、時には解体されそうにもなる日常を維持していくことと同義なのだ。

「母じょうねつ編」「みかん青春編」「父の愛情編」・・・といったようにテーマごとに編まれた2019年からのベスト版の刊行やTwitterYouTubeを駆使した原作やアニメのプロモーションにより(SNSと『あたしンち』の相性の良さ!)、そのファンの声はだいぶ可視化されるようになってきたが、まだまだ足りないように思う。別の媒体に寄稿した文章の中にも書いたのだけど、この国の三大“家族”漫画と言えば、『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』、そしてこの『あたしンち』で決まりなのであって、けらえいこ(と共同制作者である上田信治*1)の作家としての地位は長谷川町子さくらももこといったレジェンドと同等であってもなんらおかしくないのである。一方で『あたしンち』の凄さを語るのは実に難しいのもまた事実だ。端的に書いてしまえば、作者の日常に向けた観察眼とその瑞々しいスケッチ力。そしてその日常から発展していく生活していくことへの思考の流れのようなものが、小学生にでもわかるように平易に綴られているところ。つまりは“生きる”ということの細部を描いている点にある。この作品がなければ、見過ごされてしまったであろう、生の“シーン”というのが無数に存在するように思う。であるから、その魅力を語るのであれば、あのエピソードでのみかんの心情!とかあのエピソードの父の表情!(パッと思いつくのだと、♯199「明日死ぬって言われたら?」で人生論の本を読み終えた父の表情とか物言い)というように細部を拾い挙げていくのが最も適しているような気もするのだけど、20巻以上に渡る作品に対してそれをやるのも・・・と筆を悩ませる。それを無理にやるのであれば、ユズヒコ(中学2年生の長男)というキャラクターを敬愛しているわたしであれば、ユズヒコの床屋で前髪を短くされたくないという抵抗、鼻をかんだチリ紙を一発でゴミ箱に投げ入れることができれば「明日のテストが上手くいく」という謎の願掛け、ブリーフからトランクスへの移行タイミングの難しさ、真夜中の空腹を癒すハムとチーズとマヨネーズの食パン、好きなアイドルを公表できないもどかしさ、フォーク並びという概念を後ろに並ぶ人に伝えるかの葛藤、深夜に茹でるソーメン、好きでもないアイドルが夢に出てきてドキドキしたこと、父とは母を通してじゃないと会話しづらいとこ、バカなまねすると周りをしらけさせてしまう、サングラスをかけた自分の顔が気になるけど恥ずかしくかけられない・・・などなど有限なくスルスルと出てくる。「ユズヒコ、お前は俺か」とうれくしくなってしまうのだけど、『あたしンち』は“あるある”だけで構成されているわけではなく、母やの奇行をはじめとする”ないない”が絶妙な塩梅でミックスされている点が秀逸なのだと思う。その“ないない”というのは、“存在しない”というのではなく、わたしの人生には“ない”けれども、どこかにたしかにその人のオリジナルとして“ある”のであろうという固有性であり、それは生命の煌めきのようなものである。であるから、『あたしンち』を読んでいると、この一回性の人生の尊さよ・・・といったところにまで思考が辿り着いてしまうのである。

今一度、キンモクセイの名曲「さらば」をバッグにしたアニメ版のオープニングを見返したい。

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フルカラーの『あたしンち』登場人物たちに対して街行くモブキャラクターは灰色に塗られているのだけど、それが中盤に差し掛かると反転し、タチバナ家の面々が灰色となり、モブキャラクターが色づいていく。そして、最後は街の家々の灯りを俯瞰で捉えたショットで終わる。

こんにちは ありがとう さよなら また逢いましょう

まさに、街ですれ違う人々、その一人一人に物語、命の輝きがあるということを表現しているではないか。

また、『あたしンち』が単なる“あるある”漫画の域にないことを証明するエピソードとして、♯202「日曜日のもやもや」を挙げたい。日曜日、わけもなく1日中悶々としているユズヒコ。部屋で暴れてみたり、本屋で立ち読みしてみたりするものの、もやもやは解消するどころか悪化していく。しかし、道端で偶然にクラスメイトと遭遇し、他愛もない会話を交わすと、心が何故だかスッキリしていた。「日曜日のもやもやは寂しさが原因かも」と締めくくられるのだけども、この読後感はもう“あるある”というレベルを超えている。『あたしンち』を読むことで抱く、「同じ想いや感情を抱えた人々が実は無数に存在するのかもしれない」という実感、これは緩やかな連帯のようなものであって、人が生きる上での埋め難い孤独をソッと慰めてくれるのものである。

こんだけ書いても、他にもしみちゃんとか吉岡とか岩木くん(めちゃ素敵、漫画界No.1)とか宮嶋先生(めちゃ駿、宮嶋先生の本棚知りたい)とかひとみ先生(牛鬼)とか藤野とか石田とか須藤ちゃんとか川島とか好きなキャラクターがいっぱいることとかをまったく伝えることができないのがもどかしい。好きなタチバナ家の献立とか、タチバナ家がシリアルをやたら好きなこととか(シャコシャコという擬音、「牛乳のないコンフレークなんて!」)。また、『あたしンち』をこれほど敬愛していながらも、2019年から『AERA』に掲載場所を移して『あたしンちSUPER』として復活していたことを把握していなかったことを恥じます(単行本もすで1巻出ています)。

タチバナ家の面々がマスクをして生活し、UberEatsを注文していたりする。『あたしンち』のキャラクターを現代を生きる同志として暮らしていけるのがうれくしてなりません。

*1:今年刊行された上田さんによる『成分表』も必読。思考の教科書であり、あぁこの人がユズヒコなんだなということがわかる1冊です