道路交通看板「静かに」について
夜が更けた帰り道、親の運転する車の窓から見上げる、「静かに」と書かれた青い看板が好きだった。お出掛けが終わってしまう“寂しさ”と、知っている場所に帰ってきた“安心感”がないまぜになったような感覚。幼心に芽生えたちょっとだけ複雑な感情が、あの看板に今でも宿っているような気がする。
そもそも、道路標識というものは、運転中にドライバーが目にするものだから、注意喚起するわりには情報量が少ない。じっくり読ませてしまったら事故を起こしてしまうから。「結局のところ、どういう意味なんだっけ?」と混乱することもあるが、効率や機能性を追い求めるこの情報社会において、あの“抜け感”がちょっと心地よいのだ。
個人的に「普通自転車等及び歩行者等専用」(得体の知れない物語性*1)とか「動物が飛び出すおそれあり」(シカ、タヌキ、サル、ウサギなどバリエーションがあるところかわいい)の標識あたりが好き。
そういった道路標識の中においても、あの「静かに」の看板は異様に"親密さ"が濃い。数字やルールで縛ってくるのでなく、ピクトグラムではない温かみのある1枚の絵で、ドライバーの心理というか倫理に訴えかけている。社会の冷たいコードからの逸脱だ。あの看板を設置することで騒音対策の効果があるとは思えないが、「あぁ、ここには温かい布団でぐっすり眠る子どもがいる。暮らしがあるんだな。」というポワーっとした気持ちを呼び起こしてくれる。なんてことないようでいて、こういったささやかな“生”の実感の積み重ねが、わたしたちの日々を支えているようにすら思うのだ。
この「静かに」の看板、検索してみても得られる情報は意外と少ない。
こちらによれば、「静かに」の看板は、かつては法令が定める“道路標識”扱いであったが、現在は法令からは外れており、道路管理者が必要に応じて設置しているらしい。あとは、「静かに坊や」として一部の根強いファンがついているということ。そして、そのデザインのパターンは多岐にわたっているということだ。
表情や髪型が微妙に違ったりまつ毛が長かったり、帽子をかぶっていたり、赤ちゃんだったり、星の形が違ったり、星が月になっていたり・・・上記画像の「静かに」がオリジナルなのかもわからないが、仮にこれをオリジナルとした場合、表情にせよ、髪型にせよ、デザインの情報量の落とし方、どこをとっても絶妙なバランスでオリジナルが秀逸であるように思う。
この看板のデザイナーとかつて仕事をしたことがあるという方がTwitterで教えてくださった情報によると、そのデザイナーは“森さん”という名前で、15年前に70代であったらしい。また、黎明期の無印良品のプロダクトデザインやモスバーガーのトレイのデザインなどもされていたとのこと。検索してみても、まったく辿り着くことはできなかったし、正確な情報かはわからない。しかし、無印良品やモスバーガー関連のデザインをされている方が、あの「静かに坊や」を作ったのかと思うと、その生活との密着の近似性に、なんだか胸がいっぱいになる。そして、なんたる匿名性か。その仕事をした方の名前は、誰も知らない。それでも、その仕事は、わたしたちの生活に深く根付いていて、名のある政治家やインフルエンサーなんかよりも、よっぽど暮らしを良くしてくれている。「静かに坊や」には間違いなく人々の暮らしを見つめる優しい視線がある。名もなきデザイナーによる心温かき思想が、何十年の時を経てもなおこの国の道路に散りばめられているのだ。