青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

宮﨑駿『君たちはどう生きるか』


宮﨑駿による『不思議の国のアリス』(もしくは宮沢賢治の童話)とでもいうような、イマジネーションの破茶滅茶なまでの躍動。『千と千尋の神隠し』以降の作品に見られた傾向がさらに押し進み、ストーリー・テリングとしては、明らかに混乱している。しかし、それは宮﨑駿の“世界”に対する誠実な態度であるように思う。シンプルで明瞭なストーリーで語り切れるほど、この複雑で暗澹たる現代は生易しくないし、そもそも人間というのはそんなに簡単なものではない。たとえば、この映画における主人公の父親。彼にいい印象を持つ観客は多くないだろう。転校初日に車で学校に乗りつけたり、子どもの喧嘩に介入したりするさまなどは、まさにエーリッヒ・ケストナーが『飛ぶ教室』で書いた大人への批判がそのまま当てはまる。

どうしておとなはじぶんの子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちにはときに悲しいことたみじなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解出来なくなってしまうのだろう。

しかし、彼は妻と息子が行方不明になった時、果敢に怪物に向かい打ち、さらにその胸元には彼らのためのチョコレートを忍ばせている(実にさりげない描かれるこのシーンは感動的だ)。こういった人間の多面性を描いていけばいくほどに、物語は複雑にならざるを得ない。


宮﨑駿が映画を作る理由。渋谷陽一によるインタビューの下記箇所で語れている。

「この子が生まれてきたことに対して、『あんたはエライときに生まれてきたねえ』ってその子に真顔で言ってしまう自分なのか、それともやっぱり『生まれてきてくれてよかったんだ』っていうふうに言えるのかっていう、そこが唯一、作品を作るか作らないかの分かれ道であって、それも自信がないんだったら僕はもう黙ったほうがいいなっていうね。だからどんな状態になっても世界を肯定したいっていう気持ちが自分の中にはあるから、映画を作ろうっていうふうになるんじゃないかと思うんです」
(『風の帰る場所 ナウシカから千尋まで軌跡』より)

風立ちぬ』公開の2013年から10年。この世界の状況はさらに悪化の一途を辿り、人間の内面も大いに疲弊している。それでも、“これから”の子どもたちに、「生まれてきてよかったんだよ」と言ってあげるために、宮﨑駿は精一杯混乱してみせるのだ。


ジブリ王国の継承(とその不可能性)。産まれ直しのモチーフ。この映画でいったい何度、眞人は“穴”を貫通しただろう(青鷺のクチバシの穴を塞ぐ、ズボンを穿く*1、といった運動を含め)。しかし、これらはすでに多くの場所で良質に語られ尽くされているだろうから口をつぐむ。私が描きたいのは、『君たちはどう生きるか』を観て、頭に浮かんだあるドラマの一節だ。それは、坂元裕二が脚本を手掛けた『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマにおいて、小島遊(オダギリジョー)が親友を亡くして落ち込む大豆田とわ子(松たか子)に伝えた言葉。

人間にはやり残したことなんてないと思います
過去とか未来とか現在とか
そういうものって、“時間”って別に過ぎていくものじゃなくて
場所っていうか別のところにあるものだと思う
人間は現在だけを生きてるんじゃない
5歳、10歳、30、40・・・その時その時を懸命に生きてて
過ぎ去ってしまったものじゃなくて
あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら
今も彼女は笑っているし
5歳のあなたと5歳の彼女は今も手を繋いでいて

今からだっていつだって気持ちを伝えることができる

「あなたが笑っている彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っている」、宮﨑駿が今作で描こうとしたのはまさにこれではないだろうか。

僕が愛したあの人は
誰も知らないところへ行った
あの日のままの優しい顔が 今もどこか遠く

米津玄師による主題歌「地球儀」にて、こう歌われていることもその証左となるだろう。たくさんの人々と死に別れた宮﨑駿が、どうやってその“悲しみ”を慰めてきたかの過程がフィルムに刻まれている。亡くなってしまった母の、元気だった頃に出会いたい(なんならば、恋に落ちたい)、という想いが“ヒミ”というキャラクターを生み出した。いや、「元気だった頃の母」というのは正しくないだろう。「今も彼女は活力的であり、僕のためにパンを焼き、たっぷりのバターとジャムを塗ってくれるのだ」、そういった質感と祈りのようなものがフィルムに迸っているからこそ、この映画は観る者の胸を打つ。


そして、宮﨑駿が会いたいと願うのは母だけではない。気になるのは“キリコ”というキャラクターだ。なにかと主人公の面倒を見てくれるそのさまは、『魔女の宅急便』のオソノさんやウルスラ、『もののけ姫』のトキ、『千と千尋の神隠し』におけるリンといった、これまでの作品にも登場したキャラクターに連なるだろう。彼女は現実世界では老婆だが、異世界においては若く溌溂とした姿で登場する。そのヴィジュアルは、どこか平面的な顔立ち。煙草に執着し、パンをパクパクと食べる*2。そして、彼女が勇ましく船を漕ぎ出すシークエンスが、『太陽の王子 ホルスの大冒険』におけるホルスの旅立ちのシーンと重なる時、このキリコというキャラクターに“高畑勲”が重ねられているのだと確信することだろう。

もしくは2016年に亡くなってしまった東映アニメーション時代から(すなわち『太陽の王子 ホルスの大冒険』にも参加している)の盟友・保田道世が混ざり合っているのかもしれない。『風立ちぬ』において、堀越二郎堀辰雄を混ぜ合わせて主人公を作り上げたように。ここで再び、宮﨑駿のインタビューをまとめた『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』から一節を引きたい。

ー宮崎さんの作品の中でキャスティングされるサブの一つの典型は、釜爺みたいな人と、あともう一つ、いわゆるすごくしっかりもののお姉さんというのも必ず登場しますよね。『千と千尋の神隠し』で言えば、“リン”ですけれども、ああいうキャラクターがいるっていうのは、やっぱりストーリー・テリングの中で、宮崎さんにとってすごくやりやすい部分があるんですかね。

宮﨑「やりやすいから選ぶっていうよりも、そういう人がいてほしいんですよね。たぶん、人間誰しも素寒貧で世の中に出ていくときに、職場とかで、そういう先輩に出会ってるはずなんですよね。そう思わないですか?僕は自分の過程を考えると、そう思いますよ。だから、映画に出てくるほどの関係性で親しくなくてもね、ものの考え方とか、心構えというのをいつの間にか仕込んだって人がいると思うんですよ。

ものの考え方とか、心構えを仕込んだ人としてのウルスラやリン。彼女たちは、宮﨑駿における高畑勲保田道世という存在の表出だったのだ。キリコは眞人に釣った魚の捌き方を教える。その際に、キリコから発される言葉は「もっと深く」「一気に引く」・・・それはアニメーション作りにおいて、宮﨑駿が高畑勲から学んだことのメタファーのようである。”もっと深く“というのは、高畑勲の告別式での宮﨑駿の言葉に登場する。

僕はパクさんと夢中で語り明かした。ありとあらゆることを。中でも、作品について。僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。何を作ればいいのか、どうやって。パクさんの教養は圧倒的だった。僕は得難い人に巡り会えたのだと、うれしかった。

”一気に引く“はカメラワークのことだろう。宮﨑駿のカメラはキャラクターに寄って観客を巻き込んだ快楽性を描いていくが、高畑勲のカメラはキャラクターから一歩引いた抑制的な視点で物事を映しとる。そのことに対して、宮﨑駿はどこかコンプレックスに近いものを感じているように思う。そして、キリコの捌いた魚の臓物は、これから生まれてくる子どもたちが羽ばたくための栄養となる。それはまさに、『アルプスの少女ハイジ』『母を訪ねて三千里』『未来少年コナン』『パンダコパンダ』といった子どもたちのためのアニメーションを作り上げてきた高畑勲保田道世の姿に重なる。羽ばたいていく(これからの)子ども達を見つめて、「お腹いっぱい食べさせてあげられてよかった」と涙するキリコ(=高畑勲保田道世)を宮﨑駿が描く。さらに、眞人はキリコに「また会える?」と抱きつくのだ。今からだって、いつだって、気持ちは伝えることができる。この『君たちはどう生きるか』は、宮﨑駿が「やりたかったけど、できなかったこと」の想いに、ありったけの夢(と狂気)を込めて紡がれている。


『大豆田とわ子と三人の元夫』のオダギリジョー演じる男の言葉は、最後にこう締め括られる。

亡くなった人を不幸だと思ってはならない

生きてる人は幸せを目指さなければならない

人はときどきさびしくなるけど人生を楽しめる

楽しんでいいに決まってる

世界はそうやってできている。であれば・・・わたしたちはどう生きるか?

*1:それは2度も印象的にカメラに収められる

*2:高畑勲の“パクさん”というあだ名の由来