
『アメリカン・スリープ・オーバー』や『イット・フォローズ』のデヴィッド・ロバート・ミッチェルがJ・J・ブラムスとタッグを組んで送り出した恐竜アドベンチャームービー『オークストリートの異変』に心を撃ち抜かれた。こういう映画が観たかったのだ、という興奮と感動で頭痛がするほどであった。制作側がインタビューで語っているとおり、1980年代のスピルバーグ作品ひいてはアンブリン・エンターテイメントへの憧憬が色濃い。美術や衣装はもちろんだが、まずもって舞台がスピルバーグ映画の魂ともいえるサバービア(郊外の住宅地)だ。その箱庭のような舞台設定は、デヴィッド・ロバート・ミッチェルのフィルモグラフィーとも親和性が高い。大作のスペクタクル映画のようでいて、舞台あくまで“オークストリート”というサバービアの小さな地区であり、均一化された閉塞感の中で恐竜が暴れているというのが、この映画のヴィジュアルのキーだ。
そして、80年代のスピルバーグ作品に倣うようにカット数は絞られ、1つのカットの中で人や恐竜を縦横無尽に動きまわっている。フレームに奥行きがある。また、フレーム同様に、キャラクターの人物造詣にも奥行きがある。100分という短い尺の中で、ちょうどいい塩梅に掘り下げられているのだ。母親を演じるアン・ハサウェイ(驚異的な顔と立ち姿の美しさ、銃を撃ち放っぷり)のサバービアへの似つかわしくなさを埋めるような作家行為、父親(ユアン・マクレガー)の涙が出るような小市民性など、主要人物であるプラット一家はもちろんなのだけど、近所の老婦人が作家である夫の推敲を担当していた過去を持っていたり、図書館司書の女性は古代植物に詳しく謎の豪邸に住んでいたりと、豊かなドラマの予感がさっと描かれる。神経質な隣人メルの家というものへの固執も忘れがたい。彼らのカメラには映らない人生というか、魂のようなものに“親密さ”を覚えてしまう。この「カメラに映らないものまで撮る」という姿勢は、“臭い”というモチーフの頻出に見てとれる。煙草、恐竜の糞、酒・・・と劇中において3度にわたり“臭い”に関しての指摘が入る。デニースが必要以上に気にする冷蔵庫の食べ物の腐敗(アン・ハサウェイの冷蔵庫を閉める速度!)やグレッグの配達するピザもまた、観客に“臭い”を掻き立てるアイテムと言えるかもしれない。「画面には映っていないものを観客の身体の中に発生させる」という演出はまさにスピルバーグの映画観の継承のように思える。
サバービアに恐竜が出現してしまう理由は、“ワームホール”というような説明はされているが、怪奇は、家族が抱える“寄る辺さ”によって引き起こされている。両親の不和、将来や人間関係の悩み、現状への不満、性の鬱屈や揺らぎ・・・埋めがたい孤独。そんな心の暗闇から、怪物たちはやってくる。ここが何よりもスピルバーグ的と感じた。

スピルバーグであれば、少年や少女に的を絞るはずなのだが、映画が、街のお祭りのサックレース(袋飛び競争)に家族4人で参加して戯れているところから始まるように、『オークストリートの異変』においては、父や母もまた少年や少女のように映して撮っているのでないだろうか。
恐竜という異物が日常に混入し、プラット一家の内部にあった亀裂はどんどん露呈されていく。しかし、過酷な環境下で家族はともに“ミルク”を飲み(このシーンは二度も挿入される)、恐竜の本能に赴くままの殺戮、果てにはその“交尾”を見ることで、夫婦と家族が再生していく。倫理もへったくれもないが、“命の営み”が壊れた家族を再生させていくというマジカルさに痺れる。また、息子のブライアンが犬を助けるために危険を顧みずに家を飛び出すシーンがある。当然、その身勝手な行動のために家族も危険に晒されてしまう。グレッグを公衆電話からコールするラストシーンも、賛否が分かれて当然だ。倫理的にもタイムパラドックス的なことを考慮すれば、かなり首をかしげてしまう。しかし、わたしはこれらのシーンにひどく感動してしまう。常識や道徳を超えた「助けたい」「会いたい」という純然たる想いがフィルムに刻まれているのはもちろん、それらが映画の力で圧倒的なまでに“マジカルに”報われてしまうからだ。こういうものに触れたくて、わたしは映画を観ているように思う。
そう、『オークストリートの異変』には“映画”というものへの愛がある。序盤、印象的に登場するブライアンが庭の“柵”(あまりにもスピルバーグ的モチーフ!)の隙間から街に引っ越してきた少女ジャネットを覗き見るシーン。夜中に訪れた大きな振動音の正体を確かめるために、マッチを灯して“窓”から見つめるシーン。恐竜から身を守るため、窓には無数の柵が施され、一家はその隙間から“未知なるもの”を覗き見る。もしくは車のウィンドウから。異変は暗闇の中で、窓から差し込む“光”としてやってくるし、一家は救済を求めて、“光”に向かって走っていく。『オークストリートの異変』は全編を通して、“映画”というものの構造を模しているのだ。



