青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

生方美久『silent』最終話


「言葉は何のためにあるのか?」というのは、想(目黒連)の書いた作文冒頭の問いかけだった。その問いは作文の中において

言葉が生まれたのは、きっと想いの先にいる誰かと繋がるためだ

と結ばれている。つまり、言葉は“想い”の代替品ではなく、“想い”を伝えるための手段のようなものということだ。10話においては、春男先生(風間俊介)と奈々(夏帆)の間においても、以下のような会話がなされている。

手話はコミュニケーションの手段でしかなかった
言葉の意味を知ることと相手の想いがわかるってことは違った

言葉(もしくは手話)は“想い”とイコールではなく、コミュニケーションの手段である。そして、最終話において教室の黒板の前*1で紬(川口春奈)は言う。

人それぞれ違う考え方があって
違う生き方をしてきたんだから
分かり合えないことは絶対ある
他人のこと可哀想に思ったり
間違ってるって否定したくもなる
それでも一緒にいたいと思う人と
一緒にいるために
言葉があるんだと思う

言葉は、どうしたってわかりあえない私たちが、それでも誰かに想いを届け、繋がるためにある。それは“祈り”のようなものだ。たとえば、「寒い」と言葉にして人に伝えるのは、「私は寒いのだ」ということを情報として伝えたいからだろうか?いや、その言葉を聞いた相手からのリアクションを期待する(≒祈る)からこそ、わたしたちは言葉にする。あなたの発した「寒い」という言葉を聞いた誰かは、そっと温かい布をかけてくれるかもしれない。もしくは熱々のスープを分け与えてくれるだろう。そんな風にして、言葉は祈りのように発され、誰かのアクションを生み出し、孤独であるはずの人と人とを繋げていく。


言葉は“祈り”であるから、届かないかもしれない、叶わないしれない。脆く不確かなものだ。それゆえに、『silent』という作品は、言葉についての物語でありながら、言葉を万能なものとして描いてはいない。それを象徴するのが前述の黒板での紬の台詞の続きである。

たぶん全部は無理だけど
できるだけ分かり合えるように たくさん話そうよ
言葉にできない時は黙って泣いてもいいよ
私も黙って背中さするから

言葉にはできない、言葉では伝えられないものがある。それが『silent』という作品に通底している諦念のようなものだ。であるから、登場人物たちは言葉にできない想いをモノに託していく。

言葉にできないからモノに託すの

というのは、紬が帰省した際の母が放つ言葉だが、この台詞もまた『silent』というドラマのルールを象徴したものだ。手土産、CD、本、母の手料理、パンダのぬいぐるみ、花束・・・色々なモノに想いを託して、登場人物たちは“貸し借り”や“使いまわし”もしくは“おすそわけ”を繰り返していく。


“おすそわけ”とはつまり、自分自身の一部を受け渡すということである。登場人物たちは、“おすそわけ”を通して、互いの魂の一部を交換し、混ざり合っていく。

自分がラブストーリーっていうものを見てて、1番いやだなと思うのが“当て馬”っていうポジションの扱い。恋が実らない子を“当て馬”だとか“かわいそうな子”みたないな、ありがちなキャラクター。“反発して、結果身を引く”っていうのだけの子にしないっていうのは、1番こだわりました。

これは『ボクらの時代』に出演した生方美久が語った今作における作劇のこだわりだ。つまり、『silent』というのは、紬と想という2人の主人公のドラマでありながら実のところ、一般的にはラブストーリーの“当て馬”を呼ばれる、恋に破れた湊斗と奈々というキャラクターに何よりの愛情と筆圧が注がれているということだ。6-7話に「(湊斗との)この3年あっての姉ちゃんだから」や「今の佐倉くんがいるのは奈々さんのおかげなんだなって思って」という台詞があるように、紬の中には湊斗がいて、想の中に奈々がいる。さらに複雑なことに、想と湊斗の間でも互いが混ざり合いは起こっていて(なぜなら、湊斗もまた想にスピッツのCDを借りているからである)、月が出ている夜空を見て、同じように「晴れてるね」と言うのである。湊斗や奈々を描くということが、紬と想のラブストーリーに寄与されていくという構造が見事に作り上げられている。であるから、終盤における紬と想の最大のすれ違い、すなわち「2人の視線はあっているのに、時間軸だけがズレている」という問題もまた、湊斗と奈々のそれぞれの指摘が解決を後押していく。

1個だけ 想って駄目だなって思うとこあって
想の見てる青羽って 高校生の紬ちゃんで止まってるんだよね
青羽の変わってないとこばっか見てる
<中略>
ちゃんとお互いのこと見てるのに
見てる時間だけ違ってる
8年分ズレてる

昔の似ている誰かじゃなくて
今のその子を見ないとダメだよ

報われなかった湊斗と奈々の“想い”が、主人公2人の中で息づくことで、美しく結実していく。これが、生方美久が紡ぎたかったラブストーリーなのだろう。恋が実らなくても、耳が聞こえなくても、「わたしたちは、ちっとも“可哀想”なんかではない!」という、世の中に蔓延する決めつけに対する“小さな抵抗の声“が今作を単なる切ないラブストーリーに落とし込んでいない。


また、このラブストーリーは美しい円環を描いている。雪だるま、CD、サッカーボール、紬が身に着け続けるコインブレスレットと、円環をイメージさせるモチーフの点在はもちろんだが、奈々が春尾先生のために買った花束から1本のかすみ草が湊斗と想に“おすわけ”され、湊斗から紬へ辿り着き、紬と想が互いの持つかすみ草を交換し合うという円の運動。そして、「“本当に交換しただけだね”って言って笑った」という高校時代のクリスマスのイヤフォンのプレゼント交換がリフレインすることで、視聴者の心は1話に舞い戻る。この最終話が数々の印象的な”いってらっしゃい“に見送られ、佐倉家の”おかえりなさい“で閉じられるのも円環だ。2人のかすみ草のプレゼント交換は、この物語の始まりである小田急電鉄世田谷代田駅のホームで行われている。物語の円環が見事に閉じられていく。

わたしたちが“おすそわけ”していくことで作られる円環は、様々なものをグルグル回し、全然違うはずの貴方や貴方、その誰もが“同じ”ように幸せでありますようにという、“祈り”の込められたサークルなのである。

<余談>
このドラマとofficial髭男imsの主題歌「Subtitle」が、言葉を紡ぐという営為の尊さについて改めて気づかせてくれた。そのおかげで、再びブログを更新しようと思えた。願わくば、わたしの紡いだ言葉もまた、どこかの誰かに何かを喚び起こしますように。

*1:黒板に文字を書き連ねていくシーンは出色。絶えず僕らのストーリーに添えられた字幕のように!(©️official髭男ism)