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坂元裕二『カルテット』最終話

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『カルテット』がついに終わってしまった。なんたる幸福な3ヵ月であったことだろうか。坂元裕二の最高傑作か否かという判断は観終えたばかりなので留保するが、間違いなく『それでも、生きてゆく』(2011)、『最高の離婚』(2013)という燦然と輝くマスターピースに肩を並べる作品の誕生である。坂元裕二への強烈な愛を叫びながらも、作家としてのピークはもう過ぎてしまったのではないだろうか、と密かに案じていた自身を恥じ、そして喜びたい。『カルテット』ではこれまでの得意技を更に研ぎ澄まし、時代の空気に適応しながら、新しい領域に果敢に突入している。坂元裕二はまだまだ我々の心をおおいに揺らし続けてくれることだろう。さて、最終話ということですが、物語としてのピークは9話で終えていて、まさにエピローグという印象。これまで鳴らしてきたいくつかのテーマを丁寧に再確認しながらも、”永遠に終わらない”という稀有な感覚を画面に刻み込んだ美しいフィナーレだったように思います。このドラマについて書きたいことは同じく全て9話のエントリーに託してしまったので、正直もう書くことがない。しかし、ここまできたならと、振り絞って筆をとります。ピークタイムのないダラダラとした文章になってしまうかと思いますが、どうかお付き合いください。



『カルテット』というドラマは、そのモチーフに”ドーナッツ”を据えている。であるから、物語はその穴の周りをなぞりながら円を循環し、元の地点(1話)に舞い戻ることになるのだ。離散してバラバラになっているかと思われたカルテットメンバーは、軽井沢の別荘に留まり、これまでのように暮らしている。しかし、どこかが違う。まるでこれまで我々の観てきた『カルテット』の”並行世界”であるかのように。まず”真紀の不在”という大きな変化がある。カルテットからトリオに。だが、それはやはり4人で暮らしているのと同義でもあるようだ。

いなくなるのって、消えることじゃないですよ
いなくなるのって、いないっていうことがずっと続くことです
いなくなる前よりずっとそばにいるんです

かつて真紀(松たか子)の口から発された言葉を別府(松田龍平)が噛みしめるように実感している。*1真紀のコロッケデートシンドロームを巡る会話(と視線)からも、家森→すずめ→別府→真紀というお馴染みの矢印の片想いが健在であることが窺える。


これまでの『カルテット』の世界との差異をより鮮明なものにしていくのは、不在そのものでなく、繰り返される1話の様々なシークエンスの反復によってである。別府がミニバンで迎えに行ったヴァイオリニストは、聞き取れないほどの小さな声で話す人見知りの女性ではなく、腹式呼吸のような大きな声で話す神経の太そうな女性に。途中でミニバンに乗り込む家森(高橋一生)は、雌犬に覆い被さられ顔をベロベロと舐められている。かつては道案内した女の子に別れ際にキスをかますような気障な男であったはずなのに!机の下で猫のように眠っていたすずめ(満島ひかり)は豚になってしまったようだ。差異は1話とのそれに留まらない。ライブレストラン「ノクターン」は和食ダイニング「のくた庵」に、”紫式部”はボックスからポケットティッシュに、家森と別府は互いを下の名前で呼び合い(諭高さんのエリンギ!)、別府の袖をまくる癖はズボンの裾捲りに移行している。鍋のマロニーをハサミで切ってあげる家森の所作には美容室で働いていた頃の名残が少しだけ残っている。同じようで少し違う。まさに並行世界。そして、何より異なっているのが3人の生活ぶりである。二度寝の常習者であったすずめは徹夜で資格の勉強をする意識高い系に、無職であった家森は週7日労働をこなすハードワーカーに。対して、これまでカルテットを養っていたはずの別府が仕事を辞めて無職に。別府は思う、みんなどうかしている、と。僕はみんなのちゃんとしてない所が好きだったのに。このパラレルワールドから抜け出す鍵はやはり不在の真紀にあるだろう、と1枚の写真を頼りに捜索を開始する。3人がミニバンに乗り込み、冒険の旅に出掛ける。この質感はやはり『ドラゴンクエスト』的だ。真紀を勇者とするならば、魔法少女(すずめ)、僧侶(別府)、遊び人(家森)というイメージがしっくりくることでしょう。そして、4人が集まり、再び演奏された「ドラゴンクエスト序曲」の間奏が、1話でのレベルアップのテーマから、セーブポイントのテーマに変更されている。これでもう4人は離れ離れのスタート地点には巻き戻らない、という安心なのだ。



真紀を再び迎え入れるまでシークエンスの見事さは、この最終話における白眉と言えよう。再会の場面における、日が落ちた団地に風に揺れる木々が影を映し出す、という画作りの強さ。『カルテット』という作品の映像感度の高さも、脚本の強度と同様に書き記しておきたい要素だ。洗濯物を干す、引き戸の開け閉め、走る、降りる、転ぶ、といったごく小さなアクションが、イメージとの連なりでもって、”活劇“とすら呼びたい興奮をもたらしている。少し振り返ってみよう。真紀がベランダで洗濯物を干す。一足の靴下には穴が空いており、真紀の脳裏には無意識に、”欠けた”仲間たちがよぎったことだろう。すると不思議なことにその仲間達が奏でる音色が聞こえる気がする。そんなはずあるわけないのに。そういったボンヤリとした思考も、けたたましい洗濯機の騒音が、すぐさまかき消してしまう。真紀は気のせいだろうな、と引き戸を閉める。暴れ回る洗濯機、嫌がらせ行為のこれまたけたたましいノック音、そういったノイズから逃れる為、部屋に戻った真紀はイヤフォンで耳を塞いでしまう。ここで真紀は仲間の音色と完全に分断されてしまう。しかし、そこに風が吹く。風はベランダに干された洗濯物を揺らす。真紀は慌ててベランダに戻り洗濯物を仕舞おうとする。ここで再び扉が開かれ、音色が彼女の耳を揺らすことになる。洗濯終了の合図音がそれを阻害しようとするが、煙であり、つまり流動体であるトリオの演奏は風に乗り、今度ははっきりと真紀の耳を捉える(君の部屋までも届く)。居ても立っても居られなくなった真紀はサンダルつっかけで部屋を飛び出し、階段を駆け下り、その音の鳴る方へ。急ぐあまりに転んでしまうほどの走りをみせる。この”転倒”がどうにも感動的だ。何度も繰り返し転んでみせたカルテットメンバーの中において、これまで真紀だけが一度も転んでこなかった。”転ばないこと”(=しくじらないように慎重になること)が、世を偽って生きる彼女の絶対に守らねばならぬルール、もしくは”呪い”のようなものであったからだ。つまり、あの転倒は、そういった呪縛から解放された”走り”なのである。そんな走りの先にいるのは、彼女の世界そのものを変容させてしまう、運命共同体に他ならないだろう。



並行世界のモチーフは意外なところにも潜んでいる。それは坂元裕二の必殺技とも呼べる手紙に。あの手紙の主は誰だったのだろうか。手紙の主と推測されるコンサート会場にいた”G”のキャップをかぶった女性を演じていたのが主題歌を担当した椎名林檎だったのでは、という憶測が流れた。なるほど、確かにそれは気が効いたファンサービスかもしれない。だが、手紙の主は椎名林檎が演じてはならない人だ。名前もない、顔もない人、誰でもない人でなくてはならない。それは彼女が、”みんな”と出会わなかった並行世界の真紀であり、すずめであり、家森であり、別府であるからだ。

世の中に優れた音楽が生まれる過程でできた余計なもの。みなさんの音楽は、煙突から出た煙のようなものです。価値もない。意味もない。必要ない。記憶にも残らない。私は不思議に思いました。この人たち煙のくせに何のためにやってるんだろう。早く辞めてしまえばいいのに。私は5年前に奏者を辞めました。自分が煙であることにいち早く気づいたからです。自分のしていることの愚かさに気づきすっぱりと辞めました。正しい選択でした。本日またお店を訪ねたのはみなさんに直接お聞きしたかったからです。どうして辞めないでんですか?煙の分際で、続けることに一体何の意味があるんだろう?この疑問はこの一年間ずっと私の頭から離れません。教えてください。価値はあると思いますか?意味はあると思いますか?将来があると思いますか?なぜ続けるんですか?なぜ辞めないんですか?なぜ?教えてください。お願いします。

この匿名の手紙への回答は、コンサートにおけるカルテットの演奏で返される。1話に登場し、スーパーマーケットでの「ドラゴンクエスト序曲」の演奏に目を輝かせていたあの中学生2人組がコンサート会場に姿を見せる。届く人には届いているのだ。

すずめ「あ、でも、外で弾いてて
    あ、今日楽しいかもって思ったときに
    立ち止まってくれる人がいると
    やった!って思います。その人に何か・・・」
真紀「届いた!自分の気持ちが・・音になって」
別府「飛ばす、飛んでけって」
家森「わかります、音に飛べ、飛べーって」
真紀「あの感じがね・・・」

そして、手紙の送り主である”並行世界の自分”にも届いてしまったに違いない。煙突の煙のようなもの、つまりは流動体であるカルテットの演奏だからこそ、シームレスに階層を超え、本来交わるはずのない世界のあの子の元に、音が、想いが届く。離れ離れになってしまった真紀の部屋のベランダに届いたように。どんなに隔たれていようとも、どんな形であろうとも、届く人には届く。”人と人はわかりあえない”という諦観の元に、徹底的なまでのすれ違いを描いてきた坂元裕二が、常にその筆で最も力を込めて伝えようとしているのは、こういった希望だ。この考察に小沢健二の「流動体について」が潜んでいることも届く人にだけ届けばいい。坂元裕二という作家はこの10年間、小沢健二以上に小沢健二な言葉を駆使してきた作家であると個人的には考えていて(山田太一小沢健二坂元裕二という美しいリレー)、小沢健二本人が復活を果たした今、両者が完璧なまでの共鳴を見せていることに、感慨を覚えてしまう。



欠点と嘘で結ばれたカルテットが、その”負債”を逆手にとり、たくさんのお客をホールに集めていく反転は、実に美しく感動的だ。しかし、問題は真紀とすすめの控え室でのやりとりだろう。

すずめ「真紀さん。一曲目って、わざとこの曲にしたんですか?」
真紀「ん?好きな曲だからだよ」
すずめ「・・・真紀さんのこと疑って来た人、別の意味にとりそう」
真紀「そうかな・・・」
すずめ「・・・なんでこの曲にしたの?」
真紀「零れたのかなぁ・・・内緒ね」
すずめ「・・・うん」

いかようにも解釈のできるこの謎の残し方である。ここですすめが指摘しているのは「死と乙女」という楽曲の持つ”死”のイメージが、執行猶予中の真紀につきまとう疑い(義父の殺害)を色濃いものにしていしまうのでは?ということだろう。しかし、対する真紀の「零れたのかなぁ」という返しはどうだろう。とても主語が”殺意”であるとは思えない。劇中使用楽曲のバックボーンについては基本的には触れないと宣言しておきながらも、抗えずシューベルトの「死と乙女」という楽曲についてWikipediaで調べてしまった。

病の床に伏す乙女と、死神の対話を描いた作品。乙女は”死”を拒否し、死神に去ってくれと懇願するが、死神は、乙女に「私はおまえを苦しめるために来たのではない。お前に安息を与えに来たのだ」と語りかける。ここでの”死”は、恐ろしい苦痛ではなく、永遠の安息として描かれている。

“死”を安息として表現した楽曲とのことである。これまた様々な解釈が可能だと思うのだけども、私は、真紀の黒髪に混じった白髪(グレー)やストレスで荒れたしまった手を想う。匿名による無数のバッシングに疲弊し、自ら”死”を望んだこともあった(でも、今は”みんな”がいる)という真紀の告白(零れた想い)なのではないか。しかし、そういった謎解きは意味をなさない。重要なのは、「信じて欲しい」という真紀の言葉であるし、秘密を守ることだ。そして、何よりも松たか子満島ひかりの”顔”の演技の凄みに他ならない。真相は明らかにならず、グレーの中へ。気に食わない人はどこまでも腹立たしいであろうアンチドラマの姿勢が、最終話においても貫かれている。


再びたくさん眠るようになったすずめが、夢から目を覚ます。ふと、あの夢のような充実感を覚えたコンサートも”夢”だったのではないかという疑念がよぎる。しかし、1枚の写真が確かにあのコンサートの現実を保証している。夢じゃなかった、と安堵の表情を浮かべるすずめ。この質感はまさに『となりのトトロ』(1988)の屈指の名シーン

夢だけど 夢じゃなかった

ではないか。最後までジブリへの目配せが貫かれている。


そして、センキューパセリである。どう考えても、”唐揚げにレモン”と比べると、キレがないし、無理がある。それでも、坂元裕二が入れ込みたかったメッセージがある。

ねぇねぇ君たち
見て!見てぇー!

この子たち言ってるよねー
ここにいるよー

食べても食べなくてもいいの
ここにパセリがいることを忘れちゃわないで

このドラマにおいて、本当に大切なことはいつも家森の口から冗談のようにして語られる。1話のはじまりを思い出したい。誰からも耳を傾けられないにも関わらず、路上で演奏するすずめだ。社会と上手に接続できない名も無き人々は、「わたしたちはここにいます」と叫んでいる。そのか細く小さな”ボイス”に耳をすましてみよう。このドラマは、真紀の聞き返してしまうほどの小さな声に耳をすますことから始まったはずだ。その散り散りになったボイスが集まり、交じり合い、調和がとれたその時、それは人々を躍らせる音楽となることだろう。


物語の締め方がいい。スクリーンプロセス撮影の車内で主題歌を歌い狂うシーンも出色だ*2。道に迷うことすら肯定する人生賛歌の筆致。そして、すべては、”途中”、という感覚。真紀の義父殺害疑惑も、才能も、夢も、別荘売却も、片想いの結末も、全て宙吊りになったまま、カルテットのメンバーはミニバンに乗り込み旅に出る。途中であるから、グレーであるから、自由にどこへでも進める。どんな続きをも書き足すことだってできる。生き辛さを湛えた人々の希望の物語は最後、名も無き我々の手に差し渡されたのである。




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*1:余談になるので脚注に回すが、この度、サニーデイ・サービス岡崎京子をジャケットアートに迎えて発表した新曲「桜super love」の”きみがいないことは きみがいることだなぁ”というフレーズと完全な共鳴をなしていることは言及せずにはいれないだろう

*2:やはり黒沢清クリーピー』における香川照之の「まだまだ行くぞぉ」を彷彿させる