青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『カルテット』5話

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30分の放送を経て、やっとのことタイトルバックが現れる。その直前に披露されるのはカルテットによる実に幸福な路上演奏だ。1話のオープニングを思い出したい。路上でチェロを独奏する世吹すずめ(満島ひかり)に足を止めるものはいなかった。誰からも耳を傾けられることのなかったその音色が、彼女の運命共同体であるカルテットとして奏でられると、かくも”世の中”に浸透する。しかし、このシーンがほとんど夢のような鮮度でもって撮られているのが気になる。演奏するカルテットの表情、演奏に手拍子で称える人々。あまりの多幸感に、えもすれば覚めることへの切なさすら伴ってしまう、あの”夢”のような鮮度である。たまたま居合わせたノリのいい外人の煽りを端にして続々と道行く人が集まり、踊り出す。果たして、こんなことありえるだろうか?この過酷な現実においては、路上で無許可で演奏しようものなら、たちまち警察が現れるのではなかったか(3話)。カルテットが演奏する様がロングショットで撮られると、画面がミニチュアのような質感を帯びたのにお気づきだろうか。
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ジオラマのステージを彩るかのような街のイルミネーション。ここで思い出したいのが、ジオラマにて提示された"人気絶頂の天才ピアニスト"若田弘樹のコンサートの光り輝く舞台装置。カルテットにとって”夢のような”舞台であったはずの大きなステージ。

一人一人の夢は捨てて
しばらくはカルテットドーナッツホールとしての夢を見ましょう

カルテットドーナッツホールとしての夢を見せつけてやりましょう

奇妙なコスプレをしてダンスのような当て振り演奏を強いられるという、ひどく残酷な現実の直後に、カルテットはあの路上演奏にて、”夢”でもって”夢”を書き換えてしまったのかもしれない。夢の意味が溶けあうダブルミーニングである。そして、30分遅れのタイトルバック。カルテットの4人の歪さ、可笑しさ、ゆえのかわいらいさ、が混じり合い強く結びあったこれまでの4話、そしてこの幸福な路上演奏シーンまでの”夢”のような楽しさをして「カルテット第1章」であったのだと捉えたい。


裏表がある人なのよ

あの人はあなたの裏表に気づいてる?

という鏡子(もたいまさこ)の言葉が5話のテーマだろうか。すずめの前では魔女のようであった鏡子が、巻を前にして突如ラブリーさを伴った気さくな姑を演じ出すのには驚かされた。“友達のふり”をしてという依頼で巻(松たか子)に近づいたすずめ、夫が失踪した直後にパーティーに参加して笑顔で写真に収まる巻、人懐っこいふりをして懐に入り込み突如牙を剥く有朱(吉岡里帆)。しかし、果たして彼女達は”裏表がある人”なのだろうか。表や裏、白や黒、赤や白、そういった対極を優しく混ざり合わせてきたのが『カルテット』というドラマであったはず。このドラマは執拗に”あいまいなもの”を描いてきた。例えば、巻真希という名前はどうだ。マキマキ。

別府くんはマキさんのこと
上の名前で呼んでるの?下の名前で呼んでるの?

という1話の家森(高橋一生)の言葉が思い出される。”マキさん”という響きは、名字か名前か、という二択すら否定している。もしくは、1話からすずめが多用する

みぞみぞしてきました

という言葉はどうだろう。実にあいまいだ。興奮してきたのか、緊張してきたのか、昂ぶっているのか、謙っているのか。いや、おそらくそういった両極が混ざり合った感情を示す言葉なのだろう。

ありがとぅショコラ*1
時すでにお寿司
よろしくたのムール貝
お兄茶碗蒸し

この坂元裕二の好調さを裏付ける"地球外生命体 戦闘型カルテット"の決め台詞も、ようは『おぼっちゃまくん』(小林よしのり)的なダジャレなのだけども見事に"混ざり合って"いやしないか。『カルテット』のこういった筆致に倣うのであれば、人間というのは、一極に寄ったものではなく、あらゆる要素が複雑な感情が混ざり合ってできているはず。であるから、何がしたいのかさっぱり見えてこない有朱の

そこ白黒はっきりしたら
ダメですよ
したら裏返るもん オセロみたいに

という認識は、ある意味で正しい。しかし、私はそれよりも巻がすずめに聞かせるパーティーでの「クソ野郎」の挿話を支持したい。そのはっちゃけた笑顔は、裏表と呼ばれる人間の多面性、言い換えれば”業”のようなものを優しく肯定してくれるようだ。



さて、5話の問題は有朱である。言葉にならないはずの想いを、繊細に、できるだけ遠回りをしながら交錯させていく坂元裕二のドラマにおいて、あきらかに異端者である。しかし、彼女のようなキャラクターは近年の坂元作品においての定石となっている。有栖は『問題のあるレストラン』(2015)の川奈藍里(高畑充希)、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016)の市村小夏(森川葵)の系譜に並ぶ女である。彼女達をして、いつも思い出すのは岡崎京子『リバーズエッジ』

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

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の吉川こずえだ。日常に突如現れた川べりの死体に対して彼女はこう叫ぶ。

あたしはね、“ザマアミロ”って思った
世の中みんな キレイぶって ステキぶって 楽しぶってるけど 
けんじゃねえよって 
あたしにもないけど あんたらにも逃げ道ないぞ ザマアミロって

坂元作品における岡崎京子的女の子達は、建前やオブラートを許さない。剥き出しの”何か”を暴こうとする。ズボンの下はノーパンだ、と。ズボンを脱がした時に現れるのは生々しい何かだろう! と。巻の秘密を前に、対立するすずめと有栖であるが、スパイを引き受け、巻を執拗に尋問する有栖の姿は、かつてのすずめが反復されている事に気づく。教会に入れ替わりで出入りするすずめと有栖が、それを明確に映像で表現している。つまり、すずめと有栖もまた、対極という構図ではなく、2人をして1人の人間のグレーゾーンを描こうとしているのではないか。有栖のスパイ行為への尋常ではないモチベーションは現在のところ不明瞭であるが、すずめと同じく貧困に起因するのかもしれない。そう考えると、所謂”女子力”のようなものを撒き散らしながらも、一貫して”黄色いダウン”という素朴な上着しか身につけていない有栖の在り方にも納得がいく。家森をとても裕福とは言えなそうな狭い間取りの実家に連れていった3話のエピソードがここで効いてくる。家森が好意(のようなもの)を向けているのもすずめと有栖であり、やはり2人は対極な人間のようでいて、1人の人間の多面性のように描かれている。



しかし、それにしても有朱が巻とすずめを追い詰めるシーンの息苦しさときたらなかった。”ドーナッツホール”という、これまたドラマ全体を貫く”空洞”のモチーフに逃げ込もうと「バームクーヘン食べます?」と持ち出すも、冷蔵庫にはあるのはバームクーヘンではなく、穴のふさがったロールケーキ、なんて演出も心憎い。有朱のポケットから転げ落ちたレコーダーから、「唐揚げレモン問題」における”不可逆性”を語る家森の音声が流れる。空間が1話にリバースする。不可逆であるはずの時の流れが、巻によって巻戻って再生されてしまう。まさに、起きてはいけないことが起きた、という感じ。凡百のドラマであれば間違いなく登場人物が感情を爆発させるであろうこの山場のシーンで、永遠みたいな沈黙が流れる。松たか子の表情ときたらどうだ。怒っているのか、蔑んでいるのか、悲しんでいるのか。その全てが混ざり合ったというような表情。巻にとってもこの暴かれた真実は寝耳に水というわけでもあるまい。

さっき来る時もすずめちゃん見えたんだけど声かけないほうがいいかなって(2話)

すずめちゃんってちょっと謎ですね
時々お線香の匂いがする時がある(2話)

わたし他にも真紀さんに隠してることあって(3話)

更に、別荘には鏡子の眼鏡があり、鞄の飾りの欠片があるのだ。いや、それどころか巻は、鏡子が別荘の前に姿を現した場に居合わせてさえする。本当にまったく気がついていなかったのだろうか。私にはあの何とも言えぬ巻の沈黙と表情は、3話におけるあの「いいよ いいよ」という”許し”を絞り出そうとしている顔に見えてしかたなかった。



そして、新たに階段(坂道)で転倒する男が現れる。“まさか”の宮藤官九郎の登場である。これはやられた。これ以上ない適役である。とても小さな声で二言三言発しただけで、これまで画面に登場せずにエピソードだけで語れていた”夫さん”像があっという間に肉付けされてしまったではないか。そんな役者そうそうおるまい。余談になっていくが、宮藤官九郎が夫役となると、2015年の岩松了の舞台『結びの庭』や「キリン 杏露酒 ひんやりあんず」のCM(妻は宮崎あおい!)での好演が思い出される。『結びの庭』も夫婦の愛と殺人が絡み合うラブサスペンスであった。いや、それよりなにより坂元裕二宮藤官九郎の邂逅である。ほぼドラマ一筋でやってきた坂元裕二とマルチクリエイタ―的なクドカン。まったく毛色は違うのだけども、やはりテレビドラマ界のトップランカーとして両者が並び立つ様には感涙を禁じえない。満島ひかり(『ごめんね青春』)、高橋一生(『池袋ウエストゲートパーク』『吾輩は主婦である』『11人もいる!』)、そして数々の宮藤官九郎のTBSドラマで演出を務めた金子文紀というピースが重なったことで生まれた奇跡か。とにもかくも、このキャスティングをまとめあげたプロデューサー佐野亜裕美の手腕には舌を巻くばかりであります。



最期に、”嘘”もしくは”演じること””ふりをする”というこのドラマ最大のモチーフに注目したい。偶然を装った運命のふり、友達のふり、演奏するふり。一見、ネガティブなそれらの行為は、嘘をつき続けること、演じきることで”本当のこと”になってしまった。

出会った時から嘘で結びついている

という鏡子の言葉が、ポジティブに反転する。この演じることや嘘は、演劇や映画やテレビドラマといった物語のメタファーとしても捉えられよう。この『カルテット』という作りモノのフィクションの中に流れる言葉は、どれも”本当のこと”として我々の胸を捉えている。むしろ、すべての”本当のこと”は嘘からしか語り得ないのではないか、とすら思う。物語が存在する理由のようなものである。『カルテット』の坂元裕二の筆致からは、”物語”への信頼と祈りが、垣間見れるのである。

*1:アラサーっぽくの指示でフレンチっぽくなるの意味わからなくて笑った