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青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『カルテット』9話

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家森:別府くん、この映画いつになったら面白くなるの?
真紀:宇宙・・・出てこないですね
すずめ:幽霊はどこにいるんですか?
別府:だから そういうのを楽しむ映画なんです

『スターシップ 対 ゴースト』という、2話で登場した『人魚 対 半魚人』に劣らぬB級感を醸し出す映画を観ながらの4人の会話。まさにこの『カルテット』という作品についての自己言及のようである。面白くない人には本当にずっと面白くないだろうな。アンチドラマで、登場人物はウダウダと動かず、物語展開はどこまでも不親切で、毎回フェイクな予告で視聴者を惑わしたりもする。8話のラストであんなにも視聴者を揺さぶった「真紀は早乙女真紀ではない」というサスペンスも、開始数分であっという間に処理されてしまう。「誰でもない女ですかね」とまで言われていた真紀の本名も”ヤマモトアキコ”とあっさり明かされ、本物の早乙女真紀はしっかり生きていて、あまつさえ自転車泥棒で捕まるような間の抜けた方だ。戸籍売買へと至った義父とのトラウマや被害者/加害者の葛藤もおそらく詳細に語られることはないだろう。そんなものを語ろうとしようものなら、「いい、いい!もういいよ!」「どうでもいい、すっごくどうでもいい!」と、ものすごい勢いで静止されてしまう。通常のテレビドラマが山場としてフォーカスを定める場所をあえてズラしている。それは社会とか倫理とか呼ばれるものか。『カルテット』は時にそういう場所に向かう素振りを見せるも、すぐにプイっと違う場所へ行ってしまう(まるで猫のように)。社会とか倫理ではなく、本来であればドラマにはなりえないように、日々暮らしていく中で、言葉にならずに零れ落ちてしまうはずの感情の機微を丁寧に拾いとることに注力し、人間そのものを描こうとしている。


『スターシップ 対 ゴースト』に宇宙も幽霊も出てこないように、『カルテット』はミステリーサスペンスでありながらも誰が良い人で、誰が悪い人か釈然としない。真紀は善人か/悪人かというミステリーを、馬の鼻先に人参をぶら下げるようにして、視聴者の関心を引き付けておきながらも、「そんなものはどうでもいい」と人参を放り投げてしまう。我々は何度この手に引っ掛かったことだろうか。坂元裕二は、性善説性悪説というようなものに、はなから興味がないのだろう。しかし、坂元裕二の書くドラマは人間の暗部にカメラが向けられてはいる。それは何故か。人間は愚かである、人間は哀しい、人間は醜いetc・・・そこから目を背けずに、それでもなお人間に愛らしさを見出し、繋がろうとするものこそ、この世界を生き抜くことができる、そう考えているからではないだろうか。であるから、こんなスペシャルな台詞が飛び出す。

僕はみなさんのちゃんとしてない所が好きなんです
たとえ世界中から責められたとしても
僕は全力でみんなを甘やかしますから

凡百のドラマからこんな台詞が飛び出せば「何をだらしのないことを言っているのか」と、抗議が殺到である。互いのダメなところをおもしろがって、欠点で繋がる4人。その絆を3ヵ月という時間をかけて描いてきたからこそ許される圧倒的な肯定が、この台詞なのである。


ホッチキスはステープラーバンドエイドは絆創膏、ドラえもんは猫型ロボット、ニモはカクレクマノミetc・・・

本当の名前で呼んで!

という家森の叫びが、真紀の本当の名前を巡る挿話の伏線になっている、という記事をニュースで見かけた。言いたいことはわかるのだけども、あの言葉を発した時点で家森が”早乙女真紀”の真相を知りえていたという描写はないし、視聴者としても放送序盤で戸籍売買の件を把握しているので、あれは伏線ではない。共鳴と呼びたい。物語のトーンに家森が(本人の知りえぬところで)共鳴してしまったのだ。そういった運動の連鎖が、物語を豊かなものにしていく。今話における最も美しい”共鳴”はこうである。すずめがバイオリンを抱きながら廃船で星を眺める中学時代の真紀を、真紀がパトカーの中でチェロをかついで地下鉄に乗る幼いすずめを、同じ時間に、離れた場所で、互いに想像する。その共鳴は、東京の地下鉄で偶然すれ違うことなんかよりもずっと尊く、美しい。誰もが孤独で、どうにも交わるはずのないようにすら思われる我々の人生は、実は知りえぬところでゆるやかに繋がっている。そんな希望が託された共鳴である。


”伏線”にどうしてもこだわるのであれば、重要なのは、ホッチキスやニモの正式な呼び方なんて「どうでもいい」という態度が、真紀の本当の名前なんて「どうでもいい」という、「どうでもいい」のミクロからマクロへの跳躍を支えている点にあるだろう。あいまいなものはあいまいなままでいい。

咲いても咲かなくても花は花
起きてても寝てても生きてる
辛くても苦しくても心

これまでと同様に対比構造を否定していく。被害者/加害者、祝賀会/残念会、パンツだけ履いてる人/パンツだけ履いてない人、仕事/趣味etc・・・どうでもいい、全部どうでもいいのだ。そんな中、ただ1つだけ、二律から一項を選びぬく問いがあった。人生やり直しスイッチを押す人間/押さない人間、である。

二種類ね、いるんだよね
人生やり直すスイッチがあったら押す人間と押さない人間
僕はね、もう 押しません
ねぇ?なんで押さないと思う?
みんなと出会ったから、ね?ね〜?

高橋一生にしか演じきれないだろう"かわいさ"はさておき、この選択の強さときたら。人生やり直しスイッチ、というドラえもんの秘密道具のようなポップな言葉で包まれているが、それは現実世界においては、ようは自殺するか、しないか、という問いだ。”みんな”と出会った4人は、生きることを諦めない。不可逆な時の流れに、逆らわない。

まきさんは奏者でしょ?
音楽は戻らないよ?
前に進むだけだよ


一緒
心が動いたら前に進む
好きになった時
人って過去から前に進む

レモンをかけた唐揚げというたとえでもって何度も説かれていた、やり直しの効かない時の流れ、この世界の冷酷さが、この9話で見事に反転していく。前に進む、ということは素晴らしいことなのではないだろうか。そのエモーションはやはり不可逆である”ドミノ倒し”に狂喜乱舞する4人の姿に託されている。人を前に進ませるのは”好き”という感情だと言う。

ママのこと愛してるんで

僕は全力でみんなを甘やかしますから

私は、真紀さんが好き

信じて欲しい

みんなと出会ったから

いくつもの美しい”好き”に満ちた9話(対比されるように空寒い、有朱の棒読みの大好き!)は、季節も前に進める。雪積る真冬の軽井沢で繰り広げられたこのドラマだが、アウトレットモールでは春の装いが並び(見るだけ)、4月になれば、すずめの誕生日もやってくる。少しずつ、でも確実に、春を目指している。暖かい場所へ。

泣きながらご飯を食べたことのある人は生きていけます

家森の流した涙を知ってから知らぬか、すずめが晩御飯の支度をする(いつも食べて寝ているばかりだったすずめが!)焼き鮭、きんぴらごぼう、そして炊き立てのご飯。これまでカルテットの夕食に並ぶことのなかった白飯が登場したことにも示唆的だが、これはまるで朝食だ。真紀が姿を消してしまった暗い夜に、朝ごはんを食べる。時の流れを先取るように、“光”のほうに進むのだ。



さてさて、残すところついに最終回1話のみである。あんまり他の作品の事を引用すると、怒られてしまうらしいのだけど、名残惜しむように、余計なことまで語らせて欲しい。おまけのようなものなので、読みたくない人は読まなくていい。この『カルテット』から何やらスタジオジブリへの目配せのようなものを感じないか、という話だ。『かもめ食堂』(2006)でお馴染みの飯島奈美をフードスタイリストに招聘してまで力を入れて描かれるフード理論はジブリお家芸、と言うよりも”フード理論”という言葉自体、ジブリ映画を語る際に生まれたようなものである。魔法少女というモチーフや、白い髭のおじいさんに導きを得たりするなんてのもどこかジブリ的なのだけども、決定的なのは家森の声色物真似だろう。「ワシにもくれ」「ワシを倒してからいけ」は『千と千尋の神隠し』(2001)で我修院達也が演じた青蛙だし、お得意の「アレー?」は『となりのトトロ』(1988)のメイだろう。そう考えると、真紀が名前を消失してしまうくだり『君の名は。』(2016)ではなく『千と千尋の神隠し』だ。こういったオマージュが、どこに結びつくかと言えば、やはり宮崎駿の(撤回された)引退会見でのこの言葉であろう。

子どもたちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えるのが
自分たちの仕事の根幹になければならないと思ってきました

これを坂元裕二は自覚的に受け継いでいるのではないか。宮崎駿はファンタジーの世界で、坂元裕二はすれ違う人間模様の中で、やり方は大きく異なるが、伝えたいことは同じ。『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016)は私の中で『もののけ姫』(1997)だったりする。前述の引退会見で宮崎はこうも述べている。

自分の好きな英国の児童文学作家でロバート・ウェストールという人がいるが、彼のいくつかの作品の中に、自分の考えなくてはいけないことが充満している。その中にこういうようなセリフがある。「この世はひどいものである。君はこの世に生きていくには気立てがよすぎる」。少しもほめ言葉ではない。それでは生きていけないぞと言っている言葉。本当に胸を打たれた。(「この世は生きるに値する」という言葉は)僕が発信しているのではなく、僕はいろんなものを多くの読み物や昔見た映画などからいっぱい受け取っているのだと思う。(それらを作った人々は)繰り返し「この世は生きるに値する」と言い伝え、ほんとかなと思いつつ死んでいったのではないか。僕もそれを受け継いでいるのだと思っている。

「この世はひどいものである。君はこの世に生きていくには気立てがよすぎる」というロバート・ウェストールの言葉は、何というか坂元裕二のキャラクター達の核心を捉えていやしないか。そして、宮崎駿がウェストールをはじめてとする先人から受け継いだように、坂元裕二もまた、「この世は生きるに値する」ということを、テレビドラマの中で訴え続けている。