青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『カルテット』8話

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またしても心震えるような傑作回である。8話に到達してもなお、坂元裕二のペンが絶好調だ。例えば、「お義母さん!(駆け寄って)野沢菜ふりかけ」というギャグのようなシークエンス1つとっても、真紀(松たか子)にハグを期待してかわされる鏡子(もたいまさこ)に、同じく別れ際にハグをすかされた幹生(宮藤官九郎)の顔がチラつく。こういった些細な書き込みによって、鏡子というキャラクターに「あぁ彼女は幹生の母であるのだな」という実感が宿るのだ。こういった人間の小さな営みを積み重ねることのできる細部の充足こそが、坂元裕二の真骨頂だろう。穴釣り、冷え冷えの便座、穴の空いたストッキングと、今話においても”ドーナッツホール”のモチーフが活き活きと登場し、物語に華を添える。ナポリタンとブラウス、ナポリタンと粉チーズ、と”赤”と”白”の混ざりあいが提示されたり、すずめ(満島ひかり)にチェロを教えたという”白い髭のおじいさん”が別の形で登場したり、とこれまでのドラマの記憶を巧に振動させるのも巧みだ。これぞ、連続ドラマを観る喜び。おせっかいなたこ焼き屋台のおじさん、という『最高の離婚』(2013)において、物語をおおいに振動させた存在を再登場させ、家森(高橋一生)の秘めたる想いを画面上に炙り出すのも、憎いファンサービス(ただ単に坂元裕二がたこ焼き大好きなだけでは)。


そして、やはり転ぶ。オープニングで見せる氷上での”転倒”が、食卓のムードも支配し、「鏡子さんが転んだ」とでもいうようなゲームが開始されるのには唸ってしまった。終盤においても、脚本に余裕がある。そして、説教されるカルテットメンバー。朝が慌ただしい、お風呂に入らずダラダラしている、寝るのが遅いetc・・・その内容はまるで親に叱られる小さな子ども。しかし、「大人なんだからしっかりしなくてはいけない」なんていうのもまた呪いのようなものであるし、もっと言えば詭弁だ。時には、だらしなく、みっともないのが人間であるはず。自身のそれも、他者のそれも、許容していくところから、始めていくべきだろう。そう思わせてくれるほどに、カルテットの面々は、”ダメな大人”がいかにチャーミングであるかを教えてくれる。

そういえば、僕もおもしろい夢 見ました
ある日突然 4人の身体が入れ替わっちゃうんですよ

という冒頭の別府(松田龍平)の夢語りに導かれるように、8話では”入れ替わり”のモチーフが頻出していく。家森が暇つぶしに提案する”5文字しりとり”は言葉の最後の文字と最初の文字が入れ替わっていくゲームである。別府の作る昼食に対してすずめが期待するナポリタンは、同じ麺類の蕎麦に入れ替わり、別府とすずめがその蕎麦を食べていたはずのテーブルには、気が付けば入れ替わりに家森と真紀が着席し、蕎麦を啜っている。すりおろしたてのわさびが鼻にくる、という所作でもってその代替を共有していくという、カルテットの結びつきの強さ、と少し抜けた様が表現された実に愛らしいシーンである。まだまだ入れ替わる。神社で別府の引いた凶のおみくじ(”相場:売るのは待て”は別荘の暗喩か)は、機転を利かしたすずめによって、大吉にすり替わる。すずめが見る夢では、真紀のポジションがすずめに。すずめの発した“鉄板焼き”という嘘は家森の”たこ焼き”という愛情へ。極め付けは、演奏する人であるはずの別府と真紀が、観客としてコンサートの演奏を聞き、更にいつもカルテットがライブを行うレストランにお客として赴く、という”入れ替わり”だろう。

こんな風に見えてるんですね

という別府の言葉は実に示唆に富んでいる。人と人のコミュニケーションにおいて、最も重要なのは、相手の立場を顧みる想像力であろう。”入れ替わり”のモチーフが、これ見よがしでなく、スムースに物語に組み込まれていく脚本の手捌きには改めて舌を巻いてしまう。さらに、この”入れ替わり”、真紀という人物の実存すらを揺らし、このドラマ最大のサスペンスを呼び込む。真紀は早乙女真紀ではない!?7話で発した

こんな人間の人生なんていらないもん

という台詞が視聴者にもたらした妙なしこりのようなものが、じわりと疼く。あれは自身を冷徹なまでに俯瞰しているのではなく、本当に自身が他者であったからなのか。入れ替わりを多用して、名前を喪失させる。昨年の大ヒット映画『君の名は。』をなぞってみせたのは、一級のジョークか、はたまた共鳴か。


ワシにもくれ!

家森が叫ぶ。それはそうだろう。おみくじの大吉も、コンサートのチケットも家森の手には渡らない。それどころか、カルテットを取り巻く恋模様の矢印はどうだ。家森→すずめ→別府→真紀(→幹生)と(今のところ)家森にだけ矢印が向いていないではないか。そして、全員片想いのカルテットメンバーにおいて家森だけが、その想いを相手に表明していないことに気づくだろう。

片想いって1人で見る夢でしょ
両想いは現実、片想いは非現実
そこには深い川がある

家森は人を好きになること、好かれることに対して絶望している。「好きです ありがとう 冗談です」のSAJ三段活用でもって、気持ちをごまかしながら生きている。飛ばし過ぎたジョークで、あらゆるものの意味をなかった事にしようとする家森は、哀しいピエロのようだ。そして、そこには大きな優しさもある。別府と真紀が仲良く話している様子から視線をそらそうとすずめの首を動かし(前髪を切ってあげているシーン)、鼻についたヨーグルトをティッシュで拭き取ってあげようとする別府の気をもたせるような心ない優しさからすずめを守る。別府からティッシュを奪いとって、鼻をかむわけだけども、まさに身を挺して守る、だ。だって、家森は1箱1600円の高級ティッシュ”紫式部”じゃなきゃ鼻をかめない男のはずなのだ!!


一方、すずめは手に入らない両想いを”夢”に見る。別府と真紀に譲ったフランツ・リストのコンサート開始時刻に合わせて、職場のパソコンでリストを聞くすずめが切ない。同じ時間に、同じ曲を、違う場所で聞いて、眠りに落ちる。コンサートのタイトルが、フランツ・リストを聴く夕べ「夢」、というのも示唆的だ。一筋の涙を流し、夢から醒めたすずめが、走り出す。両想と片想いの間に流れる深い川を横断するかのように。視聴者としては、「行って、どうなるというのだ」と感じてしまうあのすずめの行動は、そういった因果関係から一切解放されているが故に感動的だ。しかし、やはりすずめは両想いの現実を諦めてしまう。では、叶わなかった恋には意味がないのか?「冗談です」の一言で”好き”という想いはなかったことになってしまうのか?いいや、そんなことはない。

行った旅行も思い出になるけど
行かなかった旅行も思い出になるじゃないですか

企画倒れの旅行が大切な思い出になるように、叶わなかった恋も、告げられなかった恋も、破れた恋も、醒めてしまった恋も、一度発生した”好き”という想いは、等しく尊く、全てに意味がある。これこそが、坂元裕二が幾多のラブストーリーで描き続けてきたメッセージだ。若干23歳で書き上げた出世作の『東京ラブストーリー』(1991)にしても、その25年後に紡がれた『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016)にしても、ずっと同じテーマを奏で続けている。

人が人を好きになった瞬間って
ずーっとずーっと残っていくものだよ
それだけが生きてく勇気になる
暗い夜道を照らす懐中電灯になるんだよ


東京ラブストーリー

ずっとね 思ってたんです
いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまうって
私 私たち 今 かけがえのない時間の中にいる
二度と戻らない時間の中にいるって
それぐらい眩しかった
こんなこともうないから 後から思い出して
眩しくて眩しくて泣いてしまうんだろうなぁって


いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう

この『カルテット』においては、それはこのように変奏されている。

根本:君の好きはどこに行くの?
すずめ:あぁ
根本:置き場所に困らないのかね?
すずめ:私の好きはその辺にゴロゴロしてるっていうか
根本:ん、そのへんにゴロゴロ?
すずめ:ふふっ、寝っ転がってて・・・
    で、ちょっと ちょっとだけがんばる時ってあるでしょ?
    住所をまっすぐ書かなきゃいけない時とか
    エスカレーターの下りに乗る時とか
    バスを乗り間違えないようにする時とか
根本:あぁ、あの玉子パックをカゴに入れる時とか?
すずめ:白い服着てナポリタン食べる時
    そういうね 時にね その人が いつもちょっといるの
    いて エプロンかけてくれるの
    そしたらちょっと頑張れる

別府を”好きだ”と想ったすずめの気持ちは、たとえ叶わなかったことしても、消えることなく、光のように輝き、彼女を照らし、守り、生きることを諦めない強さを与え続けるだろう。別荘販売の営業を行っている際、ふと見上げた空の光に瞼を伏せるすずめが印象的だ。そして、上記の対話で、根本(ミッキー・カーチス)が発した言葉は何だったか。

眩しいね

刑事に扮する大倉孝二のあまりにナイロン100℃的な登場シーン、そして、真紀が隠す最後の嘘。すずめと家森の悲恋でエモーショナルに物語を進めたと思いきや、ラスト3分で再び極上のサスペンスで、視聴者を引き付けるテクニック。おもしろい、おもしろすぎるぞ『カルテット』!!