青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『カルテット』6話

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カルテットメンバーが一斉に介さない。ほとんどの尺を巻夫婦の回想に費やす異色の6話である。『MOTHER』8話における道木仁美(尾野真千子)の回想、『それでも生きてゆく』7話における三崎文哉(風間俊介)の回想など、この手法は坂元裕二作品においてたまに顔を出す大技である。物語の進行を停滞させてまで語らねばならない過去というのは確かにあるのだ。


おそらくデレク・シアンフランスブルーバレンタイン』(2010)を意識したと思われる、壊れてしまった夫婦の時間のプレイバック。小さな声で喋る者同士が、その聞き取れなさ故に互いの距離を詰めていく、という実に瑞々しい恋の始まりが記録されている。真紀(松たか子)の好きなピエトロ・マスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』が流れ、幹生(宮藤官九郎)のお薦めの詩集に零れた珈琲が染みている。それを拭き取るための布巾を取りに台所に立った2人がキスをする。まさに起こるべくして起こった”キス”というのを見事にワンカットに収める手腕に震える。1話における唐揚げにレモン、平熱の高い人、「愛してるけど好きじゃない」といった挿話がリフレインしてくることで観る者の感情をより刺激することだろう(1話で真紀が涙を流しながら別荘で弾いていた「アヴェ・マリア」は『カヴァレリア・ルスティカーナ』の間奏曲であるらしい)。とりわけ、1話においてマンションに戻る真紀がスーツケースを押しながら食べ歩いていたコロッケが、夫婦の幸せな時間の記憶の象徴であったことには、胸を突かれた。

幹生:あ・・・あのう これ
詩集的なアレなんですけど
真紀:え、巻さんが書いたんですか?
<中略>
幹生:まぁたいしたアレじゃないんだけど

と、代名詞と歯切れ悪さを駆使した坂元裕二お得意の話法が久しぶりに登場したのにも思わず涙腺が緩む(私はこれを勝手に”瑛太話法”と呼んでいる)。

真紀:この人 悪い人?
幹生:あぁ やっ・・・まぁ悪い人とか
   そういう感じじゃないんだけど

という幹生の人生のベストワン映画に巡る会話はまさにこのドラマの本質を象徴していると言えよう。「真紀は夫を殺したのではないか?」というこれまで視聴者の関心をリードしてきた疑惑が解決したのであるから、「真紀は善で、逃げ出した幹生が甲斐性なしの悪」という白黒はっきりした対立構図が最も観やすい形である。しかし、そうはならない。あくまでグレー。妻から逃げ出したばかりか、コンビニ強盗まで起こした幹生という男でさえも、”悪い人”と断定させてはくれない多面性がある。回想の中において、それぞれの”正しさ”と“過ち”が公平に語られていく。唐揚げにレモン問題にしても、幹生が一言指摘すれば済んだ話だ、という意見もあるだろう。しかし、忘れないで欲しいのは、彼らは声の小さな人達なのだ。その声の発されなさが故に、2人はどこまでもすれ違っていく。夫はいつまでも恋人のような関係を望み、妻は家族のような関係を望む。幹生の言葉を借りるのであれば、“欲しかったものがお互い逆さになって”いく。「人生を一緒に歩もう」と誓いあったはずが、気づけば別の道を進み出していた。それはまるで1つの家で2人別々に暮らしているようである。その確かな”分断”が、リビングとキッチンの照明の色合い、もしくは寝室の照明のON/OFFで語れていく演出は映像表現として出色の出来であろう。


であるが、1つの家で別々に暮らす、というのは果たしてそんなにも絶望的なことなのだろうか。前クールの『逃げるは恥だが役に立つ』において、平匡とみくりがとった決断は、まさに”それ”ではなかったか。

生きて行くのは面倒くさいもんなんだと思います
それは1人でも2人でも
どっちにしても面倒くさいなら、2人で一緒に過ごすのもいいんじゃないでしょうか

そして、個人的に坂元裕二の表現の”核”と捉えている『最高の離婚』最終話におけるこの構図。
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絶望的なまでに平行線上にすれ違っていく夫婦が、同じ乗り物で進むということ。「俺、レモン嫌いなんだよね」が発覚したあの飲み会の後、幹生と真紀は、植込みを挟み平行線上に別の道を歩いているようでいて、広い視野で見れば、あれはやはり同じ道のはず。ビールのつまみに柿の種を食べる2人にしても、幹夫が煎餅、真紀がピーナッツ、とどこまでもすれ違いながらも、その2人をしてやっと1つの”柿ピー”なのである(もちろん、割合の少ないピーナッツを遠慮なく食べ続ける真紀の無神経さ、と捉えらることもできるシーンなのだけど)。いや、まず2人の出会いを思い出したい。それは終電後のタクシーの乗り合いであった。職場の同僚を挟んで座る幹生と真紀。空間を分断されながらも、1つの箱に乗り合わせ同じ方向に進む。この構図こそが幹生と真紀という夫婦なのだ。もっと言ってしまえば、この構図を作る為に、同僚は大柄でなくてはならなかったし、さらに普通に撮るのであれば、同僚は助手席に座らせるはず。深読みなどでも何でもなく、意図的に撮られた構図なのだ、ということを声を大にして主張しておきたい。そして、とりわけ感動的であるのは、これらの回想が、夫婦である異なる人間が、異なる場所で、異なる相手に語りながらも、それが当然のことであるかのように、2人の知りえぬ場所で共鳴し、1つの物語として形をなしている点だろう。これこそ幹生と真紀という夫婦の在り方ではないか。



ここからはちょっと疑問というか苦言になるので、読みたくない方は飛ばしてください。6話の演出は坪井敏雄。上に述べてきたように、いくつかの素晴らしいひらめきをもった演出も見られるが、全体的にはこれまで土井裕泰金子文紀が作り上げてきた『カルテット』というドラマの文法をいささか台無しにするようなきらいがある。端的に言って、わかりやすく撮り過ぎであり、”あいまいなもの“を浮かびあがらせんとしてる『カルテット』という作品との相性はいまいちだ。たとえば、幹生の靴についたカラーボールの跡にしても、「そういうの流行ってるんですか?」とすずめ(満島ひかり)が疑問を持つだけで充分であるのに、マンガ喫茶にてカラーボールの実物をクローズアップ、あげくに宅配業者(トミドコロ)に1から10まで説明させてしまう。視線で悟るドラマであった『カルテット』にしてはどう考えてもくどい。寝室に飾られる花を強調してカメラに収め、その花言葉で夫婦の状況を語るなんていう演出はあまりにチープではないだろうか。と言うよりも、画面に映される花を見てすぐさま品種と花言葉が浮かぶ人間などほんの一握りであり、大半の人間はあとになってその意味を知るわけだから、ほとんど意味のない演出だ。宮藤官九郎が脚本を手掛けた『あまちゃん』のロケ地、松たか子がヒロインを務めた『HERO』のロケ地などを使用するという遊びも、首をひねらざるえない。物語に効果をもたらさない、ドラマの外側への寄りかかりは好ましくない。空に上がる凧の高度で幹生の恋心を表現するというのも、あまりに直喩が過ぎる上に、3回も撮るのはやりすぎ(これは脚本なのかもしれませんが)。幹生が惹かれた真紀のミステリアスさを象徴するバイオリンの音色が、

君の選んだ人生(ミチ)は僕(ココ)で良かったのか?なんて分からないけど、、、

と歌われるような安っぽいヒットソングに切り替わっているというのも、バイオリンを奏でるはずの指がハンバーグをこね回している、というのも、決して悪くはないがいささかやりすぎなような気がしてヒヤヒヤしてしまった。土井裕泰金子文紀があまりに充実したショットで語っていたのとは対照的に、カットを割り過ぎるわりに繋ぎが甘く、ビールのグラスを置くコースターの位置がぐちゃぐちゃだったり、キッチンでフライパン殴打のあとの幹生がいきなりベランダにいたり*1、目を凝らせば凝らすほどに混乱を極めた。会社を辞めたはずの幹生の携帯に打ち合わせ予定など仕事関係のLINEがたくさん来ているのもよくわからなかったし、鏡子(もたいまさこ)の見せ場である真紀へのビンタにしても、4話での茶馬子→半田→家森というあの素晴らしいビンタの連鎖のショットの後では、あまりに鈍い。丸々回想という異色回であることを考慮すれば、まぁ悪くはないのかもしれないけども。



さて、6話ラストの怒涛の急展開。これにはもう思わず満島ひかりの『ミュージックポートレイト』での言葉を思わずにはいられない。
hiko1985.hatenablog.com

だいたい7話くらいで坂元さんは・・・ちょっとねぇ
7話くらいでちょっと展開させすぎちゃう
(こんな事言ったら)怒られるけど(笑)

夫さん登場でミステリーパート終了と思いきや、ギアを更に上げて、プロデューサーの予告通りコーエン兄弟『ファーゴ』(1996)的展開に進むのか。有朱(吉岡里帆)の真紀のバイオリン強奪は謎であるし、愛おしそうに頬を寄せていたのも謎。青い金玉の猿(賞金10万円)を家森と一緒になって探していたらしいことから、やはり金銭目的で高額であるバイオリンを売り払うつもりなのか。そうなってくると、同じく愛おしそうにバイオリンを見つめていた幹生も怪しい。はたまた真紀に特別な感情があるのか。幹生と有朱は何やら言い争いをしていたような撮り方もされていて(2人は知り合いなのか、そう言われれば大森靖子が演じた”水嶋玲音”というのはどこまでも地下アイドルっぽい)、謎は深まるばかりだ。この物語がどこに連れていってくれるのかさっぱりわかりませんが、私は坂元裕二についていくぞ!

*1:ご指摘頂いたのですが、あの別荘の間取り上可能なようです