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柴崎友香『きょうのできごと』

きょうのできごと

きょうのできごと

保坂和志が今作の文庫版に寄せた「あとがき」は、今なお刺激的で、示唆に富んでいる。あまりに重要なテキストであるので、引用したい。未読の方は、ぜひ『きょうのできごと』と伏せて熟読して頂きたい。

不思議な緻密さによって小説が運動している、その緻密ぶりが面白い。たとえば、最初の「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」の冒頭、「光で、目が覚めた。」につづく段落。


「右側から白い光が射してて、中沢が窓を開けて少し身を乗り出すのが黒い影で見えた」は、〈純粋な視覚〉ないし〈光学的現象〉だが、それにつづく「白くて強い光だったから、一瞬、朝になったのかと思ってしまった」は、〈その場(現在時)の思考〉だ。次の「たぶん、京都南インター・チェンジの入口で、窓の外では、金属の四角い箱の縁に光が反射していた」で、思考からもう一度〈視覚〉に戻り、この視覚は〈外の視界〉だが、その次の「中沢はその箱の中ほどから小さな紙を取り出し、少しも見ないままそれをズボンのポケットに入れた」で、視界は〈外から車内へと移動する〉。そして〈その移動をそのまま自分まで〉持ってきて、「わたしは座席に深くもたれたまま、その作業を眺めていた」となって、「いつ眠ったのか覚えてないけど、ずっと頭を垂れて寝ていたみたいで、首の左側にシートベルトが食い込んで、ちょっと痛かった」と、ちょっと〈記憶(たぶん一時間以内の記憶)を掠めて、その場(現在時)の自分のからだの感覚〉になる。しかし、このセンテンスでは「わたし」はまだ何も動きを起こしていないのだが、「ちょっと痛かった」という感覚に誘導されて、「触ってみると耳の下から斜めに跡がついていた」と、はじめて「わたし」に〈動きが生まれる〉。そして「その跡を撫でながら」と〈動きがつづきながら〉、「小学校のときから知ってる人が、こうしてお父さんがするような車の運転や高速道路の乗り降りをなんのためらいもなくしてるのを見るのは、妙な感じがするもんやな、と思った」と、〈古い記憶〉を経由して、〈現在時の感想〉がやってくる。


私のこの説明を読んでも、たぶんほとんどの人は「だからどうしたの?」としか思わないだろう。「だって、まんまじゃん」とか、「全然ふつうなんじゃないの?」と思った人もいるだろう。しかし、これが全然ふつうではない。だから私はわざわざ太字にして要素を強調したのだがワンセンテンスごとに見たり感じたりする対象が変わり、自分の気持ちもそれにつられて変わっていく−−という、このとても機敏な動きの連続は、一見日常そのままのようでいて、本当のところ現実の心や知覚の動きよりはるかに活発に構成されている。この書き方ができる人は、ほんのひとにぎりの優れた小説家しかいない。
<中略>
小説も映画もテレビのドラマも、ただ筋を語ればいいというものではない。映画やドラマならカメラが何を写すか、小説なら何が書かれているか、というその要素によって、作品独自の運動が生まれて、それが本当の意味での面白さになる。もっといえば、それだけが作品独自の“何か”を語り出す。逆に、この運動がなくて、同じ対象や同じ気分にとどまる作品は、ただ感傷的になることで読者の満足感を演出することしか知らない。

小説論のみならず、これは優れた映画論でもある。



きょうのできごと』というタイトルが示す通り、”今日”という1日が”明日”に切り替わる事なく、持続していく。1編目における下記の台詞が今作の構造を端的に表している。

でも、わたし思うけど、やっぱり十二時で明日とは思われへんわ。そういうふうに決めとかないと困るからそうなんやろうけど。
だって、いまだって夜中の三時やけど明日やないやん、今日は今日や。
今日と明日のそんなはっきりとした境目ってあるんかなって感じかもしれへん。終わり、はい、次、ってゆうのが。
冬と春だってそうやん。暖かくなってきて、ふと春やなあって思うやん。

今日と明日の境目を曖昧にして繋げてしまう。そして、この感覚は“しりとり”を巡る会話にも託される。

「英語のしりとりってどうするん?Nで始まる言葉あるから終わらんやん。」
「続かへんかったら終わりやろ。中学の英語の時間にゆってたやん。Kで始まり単語が少ないから、そういうので行き詰まって終わるって。」
「ふーん。なんかおもろないな。あ、しまった、っていうのがないやん。」
<中略>
「でも、世界にはずばり『ん』で始まる言葉だってあんねん。」

“モラトリアム”の一言で片づけられてしまいそうな、その曖昧に続いていく、常に何かの途中であるような感覚を、「終わることのないしりとり」で肯定してみせる。”今日”は”明日”と、そして”昨日”とも結びつく。昨日今日明日。”今日”を軸にして、過去も未来もシンメトリーに繋がっていく。


で、あるからして酔っぱらった真紀に「後ろから見ると右上右下左上左下がそれぞれアンバランス」な髪型にされた西山は怒り、台所にアロンアルファでコップを重ねて作った「上下対称の物体」を作成するわけだし、友達の友達という男と電話口だけで突然仲良くなれてしまうのも、その男が「山田」という実に美しいシンメトリーな漢字を名字に持つ者であるからなのだ。というように作中において、さりげなくシンメトリーのモチーフがまき散らされ浸透している。懐かしの歌大全集みたいな番組を観ていると、十年以上も歌ったことのない歌がスラスラと歌えたり、小学生の頃に行った遠足で、絵の具を投げつけた動物園のホッキョクグマに、10年後に再会したり、過去は容易に現在と繋がる。未来もまた同様で、

「鴨川って、淀川とつながってるんやろ。」
「そうやったっけ。」
「たぶん。じゃあ、そこから船でわたしの家まで来れるんかな。」

といった具合だ。過去と未来がシンメトリーに現在に接続し、その“今日”を豊かに振動させ、輝かせる。とても美しい小説だ。ラストもいい。

空は太陽が昇る前の朝の色で、深くて気持ちいい青だった。ぼくは窓にもたれ、霧でぼやけてるような町並みを眺めてた。ぼくは、蟹を食べに行く途中。

保坂和志は、「ジム・ジャームッシュ以降の可能性は、確実に、柴崎友香に受け継がれている」という風に評しているのだけど、それがどういう事か、まだよくわからない。しかし、行定勲は『きょうのできごと』を映画化する際に『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を参照にしたのだそうだ。

それが成功しているかどうかは置いておくとして。