
<『3年B組金八先生』第3シリーズの素晴らしさについて>
1988年に放送されていた『3年B組金八先生』第3シリーズは、数あるシリーズの中でも群を抜いて影の薄い、不遇の作品である。浅野忠信、萩原聖人、森且行(元SMAP)*1、長野博(元V6)、菊池健一郎、金杉太郎など、シリーズ最高レベルの出世株が生徒役に揃っているというにも関わらず。2007年にDVD化されるまで、シリーズで唯一ソフト化されておらず、視聴することが困難であったことも大きいのかもしれないが、それだけではないだろう。通例2クール放送の金八先生シリーズにおいて、この第3シリーズだけ1クール放送という尺の短さ。さらに、舞台はお馴染みの桜中学ではなく同区内の松ヶ崎中学であり、これまでのシリーズが積み上げてきた教師陣や卒業生らの恩恵もない。さらに放送尺が短いために、卒業式すら描かれないのだ。そんなこんなで、黒歴史扱いすら受けているシリーズなのだけど、この第3シリーズは傑作である、と声を大にして言いたい。
40歳手前となり中年に差し掛かった武田鉄矢は役者として脂が乗っているし、橋爪功、前田吟、室井滋、石黒賢といったこれまたシリーズ最高レベルの脇を固める俳優陣との掛け合いがまずもって軽妙。なにより、子どもたちの“小さなドラマ”を大切にし、その心の機微を丁寧に描き、演出しているという点においては、シリーズ屈指と言える。第1シリーズの”15歳の母“、第2シリーズの”腐ったミカンの方程式“といったような大きな物語の軸はない。バブル真っ只中の生徒達の問題は、過去シリーズのようにスケバンや校内暴力といった形でわかりやすく表面化せず、皆どこか余裕がありながらも醒めている。ルックスや偏差値のコンプレックス、親や友人との関係など、その悩みも家些細なものだ。なんせ他のシリーズでは中学生の妊娠、イジメ、家庭内暴力、性同一性障害、ドラッグなどがメインテーマになっているのだから。しかし、それらの小さな悩みを”取るに足らないこと“として描いていない点が素晴らしい。学校の勉強に追いつけないこと、給食を完食できないこと、親の束縛、親の離婚、死別、坊主頭や顔のニキビ、カンニングがバレること、保身から嘘をついてしまったこと、異性にモテないこと・・・10代の彼らにとってはどこまでも切実で、その悩みは”死“にすら簡単に結びついてしまう可能性がある。それを理解しているから、子どもたちに対して「なんだそんなこと!」と簡単に笑い飛ばすのでなく、ヒリヒリとしたトーンで大真面目に描き切るのだ。
どうしておとなは自分の子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解出来なくなってしまうのだろう。(この際、みんなに心からお願いする。どうか、子どものころのことを、けっして忘れないでほしい。)
エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』より
児童文学の傑作を何作も献上したエーリッヒ・ケストナーのこの精神が、小山内美江子には根付いている。特に秀逸なエピソードとして、第3話の「穴があったら入りたい」を挙げたい。数学の授業についていけず、親とも喧嘩ばかり、もうどこかに消えてしまいたいと、そこら中に穴を掘る男子生徒、イジメの経験からクラスの教室に入っていけない女子生徒、そんな2人の交流。2人は授業を抜け出し、男性生徒は土手に2人分の穴を掘っていく。そこに金八が駆けつけ、「穴掘りを止めないさい」と男子生徒を抑えつけようとするのだけど、それを女子生徒が必死に抵抗する。あの百戦錬磨の金八先生ですら、穴を掘るという行為を「くだらないこと」としてしまうのだけど、“消えてしまいたい”という2人の祈りは穴を掘ることで確かに昇華され、心の交感が果たされている。子どもたちの理解不能と思える行為の中にある切実さ、いじらしさを見事に描き切った傑作回だ。第7話「プッツン・ママ」では、過保護すぎる母親として、第5シリーズにて兼末健次郎(風間俊介)の母を演じた田島令子が登場するのもシリーズのファンとしては見どころ。第3シリーズにおいても、田島令子の息子は兼末健次郎と同様にナイフを握るのだ!兼末健次郎の母という役は、ここで描き切れなったものの書き直しであったのかと膝を打つ。また、前田吟演じる生徒の父親と金八の友情は涙なしには見られないだろう。とにもかくにも充実のシリーズであり、決して黒歴史などではない。第3シリーズのみ見逃している方はもちろん、12話と尺が短いので、金八シリーズの入門編としてもオススメでありますので、ぜひアクセス願いたい。
<金八先生の“風景”>
『3年B組金八先生』を象徴するものと言えば、“荒川の土手”であろう。また、アイコニックなものとして、東武伊勢崎線の堀切駅の駅舎や、牛田駅付近の1.7メートルの低い高架下などが、繰り返し画面に映し出される。武田鉄矢という役者の存在感や若き生徒たちの躍動によって霞んではいるが、テレビドラマ『3年B組金八先生』の最も秀逸な点は、足立区(や葛飾区)の“風景”を30年以上に渡り捉え続けてきたところにあるのではないか。足立区というのはやや特殊な場所で、この国の高度経済成長による変化と不変の混在が顕著なエリアだ。北千住駅周辺などは駅ビルやタワーマンションで大きく変化を遂げていったが、そこから少し歩けば、昭和から変わらぬ風景が今なお色濃く残っている。『3年B組金八先生』は、その中でも鉄橋下、ガード下、水門、線路脇の細道、夜の公園遊具といった、これまでテレビがカメラを向けてこなかった“暗がり”を執拗に収めている。また、劇中は基本的に10月から卒業までの冬の期間に設定されており、足立区の寒空はいつもどこか薄暗い印象だ。“金八先生”というと、「熱血教師による愛の授業」みたいに語られがちなのだが、そういった熱さよりも何より重要なのが“暗さ”なのだ。そこにはもちもちろん10代の多感な少年・少女の心の闇が託されていて、その心の闇と葛藤はどんなに時代が変わろうとも、足立区の風景のように不変であり、普遍的なのである。どの時代の子どもたちも、怪物のような思春期の闇に囚われながら、「わたしたちはここにいます!」と叫んでいる。シリーズを重ねていく中で、毎回のように「最近の子どもたちは変わってしまった・・・」と教師陣はボヤくのだけども、いやいや、根っこの部分は何も変わっていない。であるからこそ、30年以上前の作品における青少年の心の闇、金八先生によるその暗がりからの解放に、我々は激しく心を動かれるのであろう。