
大きな事件は起きないのだけども、その一方で実に複雑な心の機微を掘り下げている。心の葛藤をありのままに描いており、ヒロインである武藤里伽子のことを観客に好きになってもらおうなんて媚びがまったくない。
杜崎くんお金貸してくれない?
あたし生理の初日が重いの
貧血をおこして寝込むこともあるのよ
男の人はわからないでしょ、どうせ
壁紙なんて濃いグリーンなのよ!
私グリーンって大嫌い!
あたしってかわいそうね
ようやく起きたのね
トイレも洗面所も使えなくて困っちゃった
高知も嫌いだし、高知弁喋る男も大嫌い!
まるで恋愛の対象にならないし、そんなこと言われるとゾッとするわ!
終盤にハイライトのようにリフレインする里伽子が劇中で発した台詞がどれも酷くて最高だ。恋愛アニメ映画として砂糖でコーティングすることなく、若者が混乱し、傷ついているさまを生々しく提示している。だからこそ、異様な実存感があり、この映画を特別なものにしているのだろう。
心情の掘り下げに加えて、ドラマメイクも実に巧み。ハワイというロケーションを選びながらも、ロマンスはおろか、海やプールに入るシーンすら描かず、ただお金の貸し借りだけが発生する。こんなこと実写作品であれば、予算的に許されることではないだろう。*1そして、この金銭の貸し借りが東京旅行へと繋り・・・というようにドラマを推進させていくのだから痛快だ。『海がきこえる』がどういう映画なのか?と聞かれたら、「ホテルのお風呂で寝る映画」と答える。空っぽのホテルで身体を縮めて眠る杜崎。あれこそがこの映画のキービジュアルであろう。クラスメイトと旅先のホテルの一室で一夜を共にするも、この映画では何も起きない。飲酒や喫煙のシーンはあるにもかかわらず、何も起きない。ただ、男がお風呂の中で眠るのだ。しかし、その小さなドラマが、登場人物たちの心を動かしていく。
ふふっ 東京にね あたし 会いたい人がいるんだ
誰かっていうとぉ…その人はね お風呂で寝る人なんだよ
大学は東京にしよう、とぼくが決めたのは
このときだったかもしれない
好きになった理由は、お風呂で寝ていたから。素晴らしい。人が誰かを好きになることが完璧に描かれているようにさえ思う。一方で、杜崎があの旅行で東京に進学しようと思うのは「なんでだよ!」という気もする。そう、この映画の登場人物の心情はかなりわかりづらいのだ。
言葉にする気持ちもわからずに
部屋で泣いていた
私にさよなら Good bye
坂本洋子「海になれたら」
『海がきこえる』のエンディングテーマの一節であるが、若者たちは常に混乱し、自分の感情をうまく言語化することができずに傷ついているからだ。そんな10代の一人である杜崎拓に、この作品はナレーターをまかせているわけだけど、これが実に“信用ならない語り手”なのだ。唯一、モノローグで心情を語ることが許されているにもかかわらず、自分の気持ちにも嘘をつき、映画を混乱させていく。里伽子との出会い直後などのモノローグはこう。
松野が里伽子に魅かれているのを知って僕は理不尽に腹立たしかった
やめちょきや 女はどうせ男の表面しか見んがよ
女なんぞにお前のよさは解りゃせんと
杜崎の気持ちはまるで松野に向けられているみたいだ。もしかしたらこの時点ではそうだったのかもしれないが、とにかく、この映画で語られる言葉には“嘘”が多い。であるから重要なのは、“風景”なのだ。この映画のカメラがほぼ動くことなく、固定されたアングルで現実世界をトレースした風景をじっくり映し撮っているのもその証左だろう。”風景”というのは、自己と世界の関係性のあり方の投影であり、若き登場人物たちの心は風景と未分化の状態なのである。たとえば、杜崎の心象風景は、あの部屋から臨める穏やかな夜の海だろう。であるから、彼らは「高知だ」「東京だ」「ハワイだ」「京都だ」というように、やたらと場所にこだわる。修学旅行の中止に対して躍起になって反抗することが、杜崎と松野の出会いであるのも興味深い。もちろん、表層的には杜崎と松野というキャラクターの理不尽に立ち向かう真っ直ぐさを表現するためであるのだが、重要なのは、旅行という“風景”を広げるイベントの中止に対しての怒りであるように思う。武藤里伽子の“東京旅行計画”もまた、小濱裕実の怖気づきにより頓挫しかけるのだけども、杜崎は旅行(=風景の広がり)の中止を許すことができない男であるので、彼の助力によって決行されるのだ。そして、その東京旅行で実に印象的な台詞が登場する。
里伽子はまるで
30分で一気に大人になったみたいだった
たくさんの風景に触れて、若者たちは世界を広げ、大人になっていく。風景であるから、そこには“風”が吹いていて、あらゆるものが揺れている。それはアニメーションの線の揺れであり、若者の心の揺れであり、劇中で繰り返し流れるメインテーマの音色の揺れであり。それらは観る者の記憶をも振動させ、ノスタルジーを引き起こし、ひどくエモーショナルな気持ちにさせられてしまう。映画の舞台である平成のルックが、巡り巡って現代にジャストになってしまったこともあり、この『海がきこえる』はあまりに特別な1本として輝いている。
*1:こういうのもアニメーションを観る喜びと言えるのでは