
『リンダ リンダ リンダ』(2005)が公開20周年を記念して4Kになってリバイバル上映!ぺ・ドゥナ、香椎由宇、前田亜季*1、関根史織・・・唱えているだけでいい気分になれる永遠の名作だ。『どんてん生活』『バカのハコ船』『リアリズムの宿』といった“童貞感”というようなダメ男の小さな躍動をフィルムに収めてきた山下敦弘(監督)と向井康介(脚本)が、まさかの女子高生の青春を撮る。しかも、題材はブルーハーツだ。山下と向井の2人は、その事実にとことん“照れ”ていて、そのモジモジした感じが生み出したであろう女優とカメラの距離感、そして物語としての盛り上がりを回避したオフビートのアンチドラマ性が、結果として耐久度の高い普遍的な青春映画を生み出してしまったのだ。
カメラが女優の顔に寄ることがない。ソンがブルーハーツを聞いて涙するという、本来であれば映画のキーになるであろう表情はカメラに映し撮られない。恵、響子、望が「リンダリンダ」を聞いて盛り上がるシーンは部室の奥に置かれたドラムキットからフィックスで撮られ、その高揚の顔には寄らない。このカメラの“遠さ”が生む、構図の奥行き。

バンドの練習風景を捉えるショット、「ソンさん、バンドやらない?」と恵が呼びかける自動販売機の置かれた吹き抜け廊下、オープニングで響子が歩く廊下の長回しやクレープ屋の受付を思い出すまでもなく、部室のドアや教室の窓、空間はどこまでも開かれている!それは、「どこへでもいける、何にでもなれる、何をしようが勝手だよ」というような青春の解放感を纏わせており、観る者を高揚させるのだ。
そして、顔に寄ることはないが、人物造詣の奥行きもまた撮られている。恵が部活のOBであろう元カレがいて、お婆ちゃんと暮らして、自宅ではジャージ姿なこと(この作品は優れた"ジャージ映画"だ。そして、自転車への跨り方!)。響子は自分の部屋がある一軒家に住んでいて、普段はコンタクトをしているらしく、お兄ちゃんがいて(腕立て伏せ、最高)、クラスメイトに恋心を抱いていること。望はたくさんの男兄弟のお姉ちゃんで、子どもの数にしては少し狭い団地に住んでいて、料理の味付けは濃く、両親の仲はあまりうまくいってないらしいこと。ソンが少女漫画が好きで、自分の恋愛には無頓着だけど、人の恋愛話には興味津津なこと。なんというか、その奥行きには深刻さがない。高校3年生である彼女達の進路や、韓国から留学生としてやってきたソンの心の在り様みたいなものは描かれない。そのアンチドラマ性は、全編に渡って貫かれている。本来であれば、物語の山場になりそうなバンドが空中分解する要因となった喧嘩のシーンは映画が始まる前に終わっているし、バンド名が決定したシーンも省力されていて、タイムリミットが迫っている中で演奏が上手くいなかなくてもメンバーに焦る様子も揉めることもなく、お互いの下手さを笑い合う。恋模様の告白シーンは軽く流され、不発に終わる。映画のクライマックスのライブシーンは映画を観続けてきた我々にはひどく感動的で、もちろん会場はそれなにりに盛り上がっているのだけども、“伝説のライブ”と語り継がれるようなものではなく、会場の後ろのほうはしっかりと白けていて、カメラはその後方の様子を捉えたショットでもって映画は幕を閉じる。
それでなにが悪い、という山下敦弘の声が聞こえてくるようだ。あの体育館に集まったのは、雨が降ってきて、雨宿りのつもりで偶然居合わせた人たちかもしれない。あの演奏で人生が変わるなんてことは、演奏している本人たちにすら起こりえないだろう。しかし、ドラマ性を回避した果てに辿りついた偶然と無意味性の積み重ねこそが、山下敦弘の撮りたい“青春”なのだ。ジッタリンジンを聞くつもりで流したカセットテープから偶然流れてきたブルーハーツ。「この前の道1、番最初に通った人ボーカル」と決めた偶然通りかかったソンをバンドに引き入れたこと。その偶然には何の意味もない。甲本ヒロトが叫ぶ「リンダ リンダ」という響きのように。*2ブルーハーツを演奏することについて、「やって意味あんのかな」という凛子に対して恵が放つ
別に意味なんかないよ
という言葉が象徴的だ。山下敦弘の撮りたいものを象徴しているのが、バンド練習の合間、夜中に学校の屋上でお菓子やジュースを持ち寄って駄弁るシーケンス。あそこでの望の言葉。
でも、全然話変わるけどさ
こういう時のことって忘れないからね
ライブの本番よりも、こういったなんでもない時間こそが記憶に残るのだ、と望は言うのだけども、そのあまりものエモさというか臭さに、ソンを除く全員が照れてしまうのだけども、山下が撮りたいのはやはり、望の言う“こういう時”、「なにも起きていないようで、“発生”してしまっている時間」だ。それはまさに、甲本ヒロトが歌うところの、“写真には写らない美しさ”というやつなのだろう。