青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

さくらももこ『ちびまる子ちゃん わたしの好きなうた』

まる子が万歳している瞬間にも
宇宙全体のそれぞれの生命が平行して
それぞれの世界をくり広げています
ちびまる子ちゃん』では まる子の世界をクローズアップして描いていますが
平行して動いているあらゆる世界のことを
私は忘れないでいようと思います

これは映画『ちびまる子ちゃん わたしの好きなうた』の原作として書き下ろされた漫画版のおまけに何気なく記されていた言葉。しかし、ここにさくらももこという作家の魂の根幹が示されているように思う。「平行して動いているあらゆる世界のことを私は忘れないでいようと思います」という宣言のとおり、フィルムは静岡県清水市の町並みを俯瞰で捉えるところから始まり、町の中に点在するモブキャラクターの何気ない仕草を切り取ったいくつかのショットが連なっていく。町で一瞬すれ違い、また別れていく人々。彼らの中にもそれぞれの人生の物語が、つまりは“うた”があり、それぞれのうたの響き合う場所が町であり、宇宙であるということ。

「“うた”とは物語であり、人生そのものである」といったやや大袈裟な導入となってしまったので、 “うた”を単純に音楽だとしてみても、それはやはり生きる上で重要な意味を持つ。特に、さくらももこにとっては。筒美京平*1大瀧詠一細野晴臣、たま、小山田圭吾電気グルーヴホフディラン忌野清志郎桑田佳祐・・・彼女が作詞などで関わった音楽作品のクレジットを列挙するだけでも、その音楽に対する想いがひしひしと伝わってくるだろう。音楽映画である今作においても、大瀧詠一「1969年のドラッグ・レース」、久保田麻琴によるアレンジのインドネシア歌謡「ダンドゥット・レゲエ」、細野晴臣「はらいそ」、たま「星を食べる」、笠置シヅ子「買い物ブギ」、杉真里のペンによるビートルズ風のロックンロール「B級ダンシング」と、そのセンスをいかんなく発揮している。

さて今回の映画の見どころの大きなポイントは音楽シーンにあります
私はディズニーのファンタジアやビートルズイエローサブマリンなど
アニメと音楽の合体した作品に深く感動していたので
そういう音楽シーンの見せ場を盛りこみたいとつねづね考えていました


「すごい!!アニメーション映画をみんなでつくろう!!・・・・・・というたいへんな日々」より

漫画版のあとがきにもあるように、『ファンタジア』や『イエローサブマリン』のような、音楽とアニメーションの幸福な融合が今作の最大の見どころだ。芝山努(『ドラえもん』映画作品)や湯浅政明(『マインドゲーム』『四畳半神話大系』など)らが演出を手掛け、揺れる精神世界を描いたサイケデリックなアニメーションパートはこの映画が熱狂的に支持される大きな要因といえるだろう。音楽パートによるアニメーション演出は、劇中では主にまる子が“うた”や絵といった芸術に触れた時に立ち上がっていく(もしくは、花輪くんのロールスロイスでのドライブによる高揚感、お風呂に漬かる極楽のような心地よさ)。つまり、豪華絢爛なめくるめくアニメーションは、芸術と触れ合った時に人々の脳内に沸き起こる高揚感・イマジネーションの豊かさを描いているのだ。さくらももこは芸術の力、そしてそれを感受する人間の可能性を信じ切っている。その事実がまずもって胸を打つ。


楽曲の権利の問題なのか2022年現在もDVD化しておらず、その視聴機会の少なさもあり、一部でカルト的人気を巻き起こしている今作。しかし、ストーリーとしては実にシンプルだ。町で偶然出会った絵描きのお姉さんとまる子の心の交流、その“出会いと別れ”を描いたメロドラマである。音楽の時間に習った童謡「めんこい仔馬」を気に入ったまる子は、“わたしの好きなうた”を絵にするという図工の課題に「めんこい仔馬」を選ぶ。なかなか絵を上手く仕上げられないまる子はお姉さんに相談を持ち掛ける。すると、この歌が実はのどかな童謡ではなく、かわいがっていた仔馬を、涙を堪えながら軍馬として戦地に送り出す気持ちを歌ったものだということを教わるのだった。

まるちゃん・・・この絵
・・・この子はいつか仔馬とお別れする日が来るけれど・・・
この仔馬のことを大好きな今のこの子の気持ちは
永遠に変わらない・・・・・・っていうイメージにしたらどうかな

生きていると、必ず“お別れ”というものがやってくる。そのことに幼いまる子は少しずつ気づき、受け入れていく。なぜなら、たとえ別れてしまったとしても、かつて交わし合った想いというのは永遠に残り続けるからだ。芸術家は、その想いを歌や絵や小説といった作品に変えていく。さくらももこもそんな芸術家の一人だが、その才能の凄まじさは、その“かつての想い”を、思い出というトーンで語るのではなく、“今この瞬間”として描くことのできる筆致の解像度にある。さくらももこがいたおかげで、わたしたちは、かつての実家や教室のあの雰囲気や、遠足や運動会や駄菓子屋にもたしかに社会のルールのようなものが存在して、子どもなりに頭を捻らせ、喜んだり泣いたりしていたことを今でも鮮明に覚えていられる。エッセイ漫画家として、何気ない、それでいてとてつもなく眩いエピソードを拾い上げてきた恐るべき観察眼と記憶力は、“美しい時”というものへの貪欲さに下支えされているのだという。またしても、原作漫画のあとがきからの圧倒的な名文を引用することで、このエントリーを締めようと思う。

まる子は幼くて、まだ“今この瞬間”のひとつひとつがいつか思い出になってゆくことに気がついていません。お姉さんと出会った瞬間も、水族館へ行っている瞬間も、それがそのまま全部思い出になってゆくという実感がないまま時がすぎてゆきます。それはある意味では子供時代のひとつの哀しさであり、そのような透明な切ないトーンをこの物語ではうまく表現できればいいなあと思って描いてゆきました。


生きてゆく中では「あとからになって思い出として美しくよみがえってくるのに、その瞬間には気がついていない美しい時」が山ほどあります。私はそういう瞬間をリアルタイムで見逃さずに生きてゆきたいと切に投げっています。その瞬間ごとが、どんな思い出よりも一番充実していると実感できる人生を送りたいと思うのです。だから、普通に街を歩いている時も、陽のあたる道にじぶんの影が落ちている様子でだけでも「うんうん」と確認しながらうれしいと感じて生きている“その時”をいちいちかみしめるようにしています。まる子の舞台は日常ですから、あの子が時々ふっとそういうことを感じる場面が私は大切だと思って描いています。<中略>まる子は少しずつ”今“が思い出なってゆくことに気がついて成長してゆくのです。

*1:この映画のエンディング曲は筒美京平が作曲、さくらももこが作詞を手掛けた高橋由美子「だいすき」だ。この楽曲の「今日がある日思い出になるの ほんとよ いつかきっとあえる わすれないでいてね 遠くふたり はなれても ひびいてる 同じメロディ」という歌詞は本作のフィーリングが表出されている