青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

失敗しない生き方×森は生きている『ぼくら、20世紀の子供たちの子供たち』


三鷹おんがくのじかんにて開催された、失敗しない生き方×森は生きているのツーマンライブ『ぼくら、20世紀の子供たちの子供たち』の昼の部を観てきました。どうかしているバンド名を持った若きバンドのツーマン。20世紀の子供たちの子供たちはアンファンテリブルだった。


森は生きているのライブを観るのこれでは2回目。前回観た時は広い会場だった事もあってか、フュージョンのようなクールな演奏の印象があったのだけど、誤った認識だった。とてつもなく熱い。沸々とグルーヴが煮えたぎっているで。高い演奏力で徐々にギアを上げていく様がたまらなくかっこいい。ボーカルの20代とは思えない風貌(あの若さであんなに立派な髭が生えるものなのか!?)と、その声の力にも驚かされた。彼らの音楽の参照点のその広さと深さが底知れない。森は生きているをきっかけに多様な音楽への発掘に精を出すリスナーが後を絶たないだろう。そして、森は生きているの演奏の何よりの素晴らしさは、メンバーが心から楽しんでいる事が、はっきりと伝わってくる所だろう。特に鍵盤とドラムの方のまさに「顔で鳴らす」いった感じのプレイは堪らないものがありました。女性が1人でも混ざれば壊れてしまうであろう、ホモソーシャル感も最高。


失敗しない生き方のライブは「衝撃」の一言。お世辞にも巧いとは言えない演奏。各楽器がグルーヴしないまま、破綻寸前で進行していくあの緊張感と美しさ、また何かの拍子でカチっとグルーヴがはまった際の熱量。あれは何と表現しよう。そして、最大のトピックはフロンマン蛭田嬢だ。常に偏頭痛を抱えたかのようなアンニュイな佇まいもかっこいいのだけど、音符を度外視したその素っ頓狂な歌唱。壊れた初音ミクボーカロイドの反乱?まぁ、とにかくむちゃラディカルなのだ。彼女がいる限り、失敗しない生き方は永遠にパンクミュージックだ。メンバーは「シティポップ」で括られる事に苛立ちを感じているようだけども、ライブを観た人で彼らはそう呼ぶ者はいなくなるだろうから大丈夫。それほどにフリーキーな演奏だった。しかし、曲はとてつもなくよくできている。理論的で口当たりはスムース。しかし、その枠をぶち壊していく演奏と歌唱がある。そのズレがたまらなく面白い。攻撃的で皮肉な歌詞も素敵だ。John Lennonが「Imagine」が大衆に広く受け入れられた事に対して、「あれはいつもの曲に砂糖をまぶしてやっただけさ」と語っていたのを想わせる。『白雪姫』のリンゴを例にとっても、やはり毒というのは甘くなくては効かないのです。邪悪なピチカートファイブと呼ばれたSPANK HAPPYをさらに破綻させたような、とか評してしまいたい。実際、サックス千葉のバンマスとしての佇まいなどは、おおいに菊地成孔の影響下にあるのではないかしら。「海へ行こう」「アメリカ人じゃあるまいし」「(仮)新曲」など『遊星都市』に未収録のナンバーもことごくよかった。特に「魔法」というフレーズが印象的な新曲がお気に入りだ。

「そして、また」といった接続詞が流麗にメロディーにのっていく様に興奮する。出世作「月と南極」はさすがにキラーチューン然とした堂々たる出立ちだった。あのイントロ最高。ラスト「わたしの街」における蛭田の圧巻の絶唱は資本主義の叫びだ。


新世代の台頭をはっきりと可視化できる素敵なイベントであった。ロシアの映画監督カネフスキーの『ぼくら、20世紀の子供たち』へのオマージュとし付けられたイベントタイトル。命名者である失敗しない生き方の天野は「説明するのは野暮なのですが」という前置きと共に、そのイベント名に込められた想いを語る。過去のアーカイブを参照に作られたポップミュージック。その恩恵を受けながらも、一度大袈裟に壊してみせ、そこから再び音楽を構築してみせたのが新世代の彼らだ。はっぴいえんどムーンライダーズシュガーベイブといった東京の偉人達の音楽、その源流であるジャズ、カントリー、フォーク、スキッフル、ルーツミュージック、ブラックミュージック、抽出して、それらをJ-POPやハウスを通過した耳で、新しい日本語ロックとして再構築してしまう。そんな面白さがある。適当な事を書くなら『動くな、死ね、蘇れ!』(カネフスキーの2作目)という感じだ。そして、両バンド共に大雑把に「シティポップ」と括られてしまうような耳当たりのよさがありながら、その裏側で蠢く情報量の多さと野心を見逃してはならない。この2バンドの台頭が若者の狼煙だ。