物語は餃子ではじまり、餃子に終わる。焼き焦げた餃子。焦げる前にはもう戻れない。「(唐揚げに)レモンするってことはさ、不可逆なんだよ」という『カルテット』(2017)の名シーンを思い出さずにはいられないその不可逆性。起きてしまったやりきれない後悔を、“タイプリープ”という坂元作品にしては珍しいリアリティラインの逸脱でもって、覆してみせる決意のロマンティックラブコメディSF。
どこかでお会いしたことありましたっけ?
ありふれた恋のはじまりの常套句。もしくは、何度も交わされる「はじめまして」の挨拶。そんななんでもない台詞が、タイプリープによって過去と未来が同時に流れ込み、どこまでも切なくロマンティックに、複層的に響いてしまう。“3年待ちの餃子”の変容で泣けてしまうのである。こんな作品、観たことない!“ラブストーリーの名手”坂元裕二の面目躍如の傑作SFの誕生だ。
坂元裕二が描くキャラクターのリアリティは、清濁併せ吞むとでもいうか、良いところ・嫌なところがあいまいに混じり合っている点に起因している。人間というのは善人/悪人というように、きっぱりと分けられるものではないから。この“混ざり合う”という質感は坂元裕二の筆致そのものであって、その笑いと涙が表裏一体となるような作劇は『ファーストキス 1ST KISS』で頂点を迎えている。そもそも、今作の肝は「“切なさ”の裏には“愛おしさ”がある」ということである。そういった複雑な人間の混ざり合う個性を、最終的に「かわいいな」「おかしいな」と思わせてくれる主演2人のチャーミング、松たか子、松村北斗こそがこの映画の最大の魅力であると言い切りたい。独特で美しい声の響き、その重なり合い。これぞ、“恋をするということ”の、いや。生命の煌めきであると思わせてくれる。
であるからして、感想だか考察だか知らないけども、そんなものは書きたくない。劇中に登場する古代生物ハルキゲニア、かき氷、トウモロコシはどういった形で物語構造に寄与しているのか?とか。駈(松村北斗)のホームからの転落⇒カンナ(松たか子)のホテルのバルコニーへの落下⇒2人で乗るロープウェイによる下降といった運動の連なり(つまりは悲劇の転落の書き換え)、とかそういうのはもう気分じゃない。そんなことより、松たか子の不器用なウィンクや犬に襲われている際の奇声とか松村北斗の「お風呂入れる人~?」とか、そういった事象を並べるだけに徹底したいのです。「ヤバいよねぇ」とか言いながら。だからもうポップカルチャーを語る主流は音声コンテンツなのだと思う。物語の形式みたいなものを読み解き、書き記して一体何になるというのか。わからないものはわからないままでいい。*1カルチャーについて書くブログなんてものはオワコンなのです。しかし、これまでこのブログで追い続けていた坂元裕二という脚本家の最新地点については書き残しておきたい欲望も少なからず残っているのもまた事実。混ざりあっている。
ひさびさにブログを読み返してみると、坂元裕二の作品について言及していたのは『花束みたいな恋をした』(2021)、『大豆田とわ子の三人の元夫』(2021)まで。『初恋の悪魔』『怪物』『クレイジークルーズ』ではキーボードを叩けなかった。それらの作品にはなくて、『花束みたいな恋をした』『大豆田とわ子の三人の元夫』と『ファーストキス 1ST KISS』にはあるものというのが何かあるはずなのだ。少し振り返ってみよう。
恋愛って生ものだからさ、賞味期限があるんだよ
ずっと同じだけ好きでいるなんて無理だよ
『花束みたいな恋をした』
いつかは冷めてしまう恋に意味なんてあるのだろうか?というが『花束みたいな恋をした』という作品が発した問いであった。実はこれは坂元裕二が長らく憑りつかれているテーマであって、『ファーストキス 1ST KISS』においても同様にこのテーマは扱われている。
よくいるじゃないですか?
出会った瞬間が1億点で
結婚してからは減点していくだけの夫婦
『ファーストキス 1ST KISS』
遡れば30年以上前の作品である『東京ラブストーリー』(1991)においても、この問いに対して鮮やかに答えを示してみせている。
人が人を好きになった瞬間って、ずーっとずーっと残っていくものだよ
それだけが生きてく勇気になる
暗い夜道を照らす懐中電灯になるんだよ
この鮮やかさでもっても飽き足らず、何度も何度も繰り返し、恋愛の耐久性についての回答を作品で示し続けていく。真の作家というのは、形式を変えながら同じ問いに挑み続けるものなのだろう。ちなみに『花束みたいな恋をした』での、終わった恋の跡が消えずにGoogleマップに記録されていた!という洒脱なオチは見事であった。
続く『大豆田とわ子と三人の元夫』において、回答はさらに洗練されていく。タイトルの通り、大和田とわ子(松たか子)には3人の元夫がいて、その3人の元夫は離婚後もなんだかんだ大和田とわ子の側にいる。それはつまり、「時間軸の異なる終わったはずの“恋”が消えることなく、今もなおそこに同時に存在し続けている」ということの可視化。これまで挑み続けきた問いへの回答を、ラブコメディのシチュエーションとして昇華してみせたのだ。そして、オダギリジョー演じる小島遊の台詞である。
過去とか未来とか現在とか
そういうものって、“時間”って別に過ぎていくものじゃなくて
場所っていうか別のところにあるものだと思う
人間は現在だけを生きてるんじゃない
5歳、10歳、30、40・・・その時その時を懸命に生きてて
過ぎ去ってしまったものじゃなくて
あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら
今も彼女は笑っているし
5歳のあなたと5歳の彼女は今も手を繋いでいて
今からだっていつだって気持ちを伝えることができる
『大豆田とわ子と三人の元夫』
カルロ・ロヴェッリのベストセラー『時間は存在しない』からインスピレーションによって、恋愛の耐久性に対しての最新回答が登場する。時間は流れるものではない。であるから、あなたが笑っている彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っている。つまり、人を好きになった想いはというのは“消えずに残っている”のではなく、“今として、ともに在り続けている”と書き換えられたのだ。そして、『ファーストキス 1ST KISS』においてこの考え方はミルフィーユ理論と名付けられる。
こんな物理的観点があって
時は流れておらず、過去・現在・未来は“同時”に存在している
時間はミルフィーユ
重なっている
冷め切った夫婦関係があった。会話をすることも、目を合わせることすらない。そして、妻は夫を亡くしてしまう。埋めがたい空洞のような不在がある。しかし、夫婦にはたしかに恋に落ちた瞬間があって、そうであるならば、たとえ今がどんな現状であろうとも、夫婦はいつだって恋をしている2人で、笑顔の2人なのだ。そんなミラクルを証明してみせた『ファーストキス 1ST KISS』によって、凡百のありふれたラブストーリーすべてが祝福されてしまう!
今作はタイプリープというSF的手法でもって、時間のミルフィーユ性を可視化してみせたが、タイムリープなんてものは必要がない。笑い合った瞬間さえあればいいのだ。とかく生きづらいこの世の中、善良ないい人である必要はない。*2あなたが笑ってくれるような“おもしろい人”であればいいのだ。であるから、坂元裕二は人間の複雑さを、かわいらしさを描き続けていくのだろう。
わたしの“好き”は
その人が笑ってくれること
『大豆田とわ子と三人の元夫』
*1:"わからない中でダンスをする"みたいなことを星野源も歌っていたよ。
*2:駈が選択する“自己犠牲”の精神もまた、『anone』(2018)で宮沢賢治を引用してみせるなど、坂元裕二が憑りつかれているもう一つのテーマだ。思い出されたのは、やはり松たか子が主演していた『スイッチ』(2020)における、こんな会話。「今回だって赤の他人じゃん。赤の他人に共感して、勝手な正義を振りかざして・・・」「でもさ、ほっとけないじゃん。私自身のことだもん。誰かがどこかで嫌な思いするのって全部繋がってて・・・Wi-Fiみたいに繋がってててさ<中略>彼女がされたことって、わたしたちがされたことじゃない!」 であるから、タイムパラドックス的なことはさておき、坂元裕二がこの世界の神様であるから、駈はあの選択を回避できない