青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

小沢健二とSEKAI NO OWARI『フクロウの声が聞こえる』

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約20年の空白を経て、小沢健二が再び表舞台にその姿を現した。しかも、とびきりの新曲を携えて、だ。もう「懐メロ出稼ぎおじさん」といったような揶揄は通用しないだろう。ニューシングルはまさかのSEKAI NO OWARIとのコラボレーション。度肝を抜く発想と行動力でもって人々の関心を弄び、視線を釘付けにする。小沢健二のポップスターとしての強度は健在である。しかし、彼は何故、一度は真っ向から否定した音楽シーンに舞い戻ってきたのだろう。2017年4月23日にフジテレビ系で放送された『Love Music』の中で小沢健二ceroの間でこんな対話がなされている。

cero「なんでまたポップスをやりだしたんですか?」
小沢「ceroの3人みたいな人がいるので、本当にそれが全てです」

これまであらゆる言葉でファンを欺き戸惑わせてきた小沢健二であるが、「本当にそれが全てです」とまで言っているのだから、言葉を額面通りに受け取ってみよう。小沢健二にとって”本当”という言葉はそれくらい重要なものであるはずだ。cero小沢健二を焚きつけたのである。ブラックミュージックへの憧憬と日本語表現との折衷、並行世界への眼差しなど、両者を繋ぐリンクは多々あるわけだが、復帰後の小沢健二ceroに対して何より共鳴したのはこのラインではないかと夢想する。

シティポップが鳴らすこの空虚
フィクションの在り方を変えてもいいだろ?


cero「わたしのすがた」

音楽を通じて”物語る”姿勢、その責任。そして、音楽には都市の在り方を変容させる力があるということ。そのことを改めて、ceroSEKAI NO OWARIといった若いミュージシャンらに気づかされ、小沢健二は”ストリーテーラー”として復活を遂げたのだ。そんな風にしてポップスの世界に戻ってきた小沢健二の新曲、そこに迸るパッションはちょっと尋常ではない。何とか物事を良き方向に導こうとする力、のようなものが全編に貫かれている。言葉や音楽を通じて、この国の都市の空虚を吹き飛ばしてやるのだ、というようなメラメラと燃える革命の意思が垣間見える。いや、そもそも90年代の小沢健二も「喜びを他の誰かと分かりあう!それだけがこの世の中を熱くする!」と世界を変容せんとす、革命家であった。しかし、当時の楽曲は「喜びを分かりあう誰か」を探し求める青年のナイーブなドキュメントの側面が強かった。それこそが「いちょう並木のセレナーデ」といった楽曲群が今でもなお私たちの胸を切なく締めつける秘密なわけだけども、家庭を持ち、”他の誰か”の存在が明確になった現在の楽曲は、また一段階ギアが変わったような力強さを備えている。

意思は言葉を変え
言葉は都市を変えていく


「流動体について」

都市と家庭を作る 神話の力


「シナモン(都市と家庭)」

小沢健二は都市を家々の連なりと捉え、都市のありかたを変える為に、まず家庭というものに魔法をかけていく。そこでリリースされたシングルが、まるで子どもに読み聞かせるかのような『フクロウの声が聞こえる』である。そのコラボレーションの相手には賛否両論があるようだが、シーンのど真ん中への浸透力はもちろん、ソングライティング、編曲センス、歌唱力・・・どこをとっても、SEKAI NO OWARIが若手ミュージシャンの中で群を抜いた存在であることは、現行のポップミュージックフリークであれば自明のこと。
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実際のところ、彼らの持つチャイルディッシュで全能感溢れるサウンド服部隆之率いるオーケストラの相乗効果は聞いての通りで、”魔法的”と呼ぶにふさわしい、生命の躍動そのものみたいな音が鳴っている。ライブ披露時のXTCもしくはムーンライダーズ直系というような渋めのバージョンも捨てがたいが、このシングルアレンジによって楽曲の持つスケール感が格段に底上げされた。リリックに目を向けてみると、チョコレートのスープ、怪物、スーパーヒーロー、クマさん・・・まるで童話のようなフレーズが散らばめられている。それらはかつて両親(小澤昔ばなし研究所)から読み聞かされたノスタルジーであり、子どもたちの未来に向けたまなざしでもあるのだろう。小沢健二SEKAI NO OWARI深瀬慧に、自らの息子たち(もしくは若い自分自身)の姿を重ね、読み聞かせるように歌っている。いや、読み聞かせるというのではなく、共に森の中を進むことで、何か”大きなもの”を伝えようとしているようだ。それには何より物語が有効だ。小沢健二は、子ども達の「虚構の中から"本当のこと"を探し当てる力」を信じ抜いてている。

いつか本当と虚構が一緒にある世界へ
いつか混沌と秩序が一緒にある世界へ
いつか絶望と希望が一緒にある世界へ
いつか孤高と協働が一緒にある世界へ
いつか残酷さと慈悲が一緒にある世界へ
ベーコンといちごジャムが一緒にある世界へ

「いつか~へ」という構文から、「こういう世界を作っていこうよ」というように読めてしまうのだけども、よく考えてみると、これらはこの現実の世界そのままを歌っているように思う。本当と虚構、混沌と秩序、絶望と希望、孤高と協働、残酷さと慈悲、ベーコンといちごジャム、そういった二律がないまぜになっているのが、この世界だ。「いつか」という言葉は、子どもたちにかかっている。彼らは、今いるシェルターのような温かい場所から、バカバカしく混乱した(でるからこそ豊かで美しい)世界へと、いつかは1人で旅立っていかねばらない。

小沢健二は、その時に向けて、できるだけの準備をしてあげたい(≒生きることを諦めない強さを与えてあげたい)と考えているのではないか。できるだけの濃密な時間を過ごさせてあげたい、あとで振り返ったとき、その温かさで涙を流してしまうような。その記憶こそが、私たちの歩みを進め、次の家庭を作る。まさに、「愛すべき生まれて 育ってくサークル/君や僕をつないでる緩やかな 止まらない法則」である。

震えることなんてないから 泣いたらクマさんを持って寝るから
いつか残酷さと慈悲が一緒にある世界へ
ベーコンといちごジャムが一緒にある世界へ
はじまりはじまりと扉が開く

と歌うこの「フクロウの声が聞こえる」という最新ナンバーと、代表曲「天使たちのシーン」の間に大きな距離はない。

冷たい夜を過ごす 暖かな火をともそう
暗い道を歩く 明るい光をつけよう

涙流さぬまま 寒い冬を過ごそう
凍えないようにして 本当の扉を開けよう カモン!

どちらも等しく、「怪物をおそれずに進むこと」を教えてくれているのだ。コングラッチュレーション、今宵、僕たちは友達のように踊るんだ。