青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ナカゴー『地元のノリ』

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上京した都市生活者の”寄る辺なさ”のようなものが、水木しげる的な”妖怪”として語られている。人知れず孤独を抱えるファミレスのバイトスタッフの2人が休憩時間に、突如として友人関係を結ぶ。友達になった彼女たちは、互いの秘密を告白し合う。彼女達の正体は、1人はカッパで、1人はぬりかべなのだと言う。あと、ぬりかべは店長のことが好きらしい。秘密の共有を終え、かっぱは手が止まっていたお弁当の残りを片付けにかかる。

カッパが食べてるな、って思いながら見るね
ぬりかべに見られてるな、って思いながら食べるね

と、その相互関係を確認し合いながらカッパが「1人じゃないんだなぁ」と零す。ジョリーパスタのスタッフ控室で繰り広げられる妖怪たちの小さなやりとりに思わず涙である。


いや、なんだこれは。本公演『ていで』の洗練はどこ吹く風、この特別公演はやりたい放題に編み込まれた荒唐無稽な群像劇だ。河童をはじめとする北区に住む妖怪たちは、赤羽のやぶ医者によって人の皮膚を植え付けられており、見た目は人間と区別がつかない。違和感なく人間世界に馴染んでいるようでいて、誰もが東京で暮らすことに居心地の悪さを感じているのだ。「繰り広げられる人間模様の登場人物全てが実は妖怪でした」というのが、物語のどんでん返しにあたるのだが、その隠されているはずの事実は、劇が始まるやいなや語り部によって宣告される。「実は妖怪でした」といったカタルシスを、ナカゴーは簡単に手放してみせる。「あらすじやオチがわかっていても、おもしろいものは作れる」というのが『ていで』より続くブームのようだ。実際、この劇において重要なのは彼らの正体などではなく、彼の抱える”切実さ”である。


基本のベースにあるのは、母子家庭に現れる別れた夫、不良中学生の崩壊家庭と再生、マンネリカップルのいざこざ、フリーターの恋・・・といった、どこかで観たことあるようなメロドラマの欠片である。それらを短時間でパワフルに雑になぞっていくのだけども、これが不思議なことに涙腺にきてしまう。丁寧な伏線や、エピソードの積み重ねがなかろうと、その場の役者のフィーリングの発露(言うならば”ノリ”)でもって、人の感情というのは簡単に揺さぶられてしまうものなのかもしれない。人間というのは、それくらい適当な生き物なのだ。波田陽区に似た男であっても、テニスウェアとラケットを身につけ、熱い言葉さえ放てば、当たり前のように周りから「松岡修造である」と誤解されてしまう。*1であるから、河童は人間になるし、人間もまたカッパになる。この境界の曖昧さは不安でもあるが希望でもあり。例えば、誰かの代わりに父親役を演じるなんていうのは何も難しいことではなく(この劇中において一体何組の疑似父子関係が築かれたことか!?)、そこには簡単に愛が宿る(のかもしれない)。

*1:この松岡修造というチョイスがいまいち冴えていないような気がして、あそこがもう少しハッとする何かであったなら・・・