青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ナカゴー『ていで』

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ナカゴーという劇団の現時点での最高傑作と言ってもいいのではないだろうか。「浅草九劇」という会場にも驚かされた。ちゃんと劇場なのだ*1。ここのところは、催事場、公民館、廃校スペースといった一風変わった場所でばかり上演してきたナカゴーである。お得意なスプラスティックな暴力表現も鳴りを潜め、間口を広げようという確かな意志のようなものを感じた。ナカゴーという才能がいよいよ次のステージに。抜群に観やすくはなっていたのだけども、「珍しくいい話風にまとまっていた」というような評価はやや釈然としない。私にとってのナカゴーの演劇は、いつだって切実な響きをともなった”いい話”であったからだ。本公演のチラシは『ナインストーリーズ』の新潮文庫版のデザインを模している。

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

同じく本公演である『率いて』(2015)における『ライ麦畑でつかまえて』の白水Uブックス版に続いてのデザインでのサリンジャーオマージュ。ナカゴーの演劇がサリンジャー的かと言われると話がよくわからなくなってくるのだが、”コミュニケーションの切実さ”を描いている、という点では大いに納得のいく連なりであろう。実際のところの意図は、「何となく」くらいのものなのかもしれないが、そういった態度もまた鎌田順也の魅力である。


ナカゴーは1年に1本ほどのペースで上演される本公演の間に、何本も特別公演を挟んでいる。観ているほうとしては本公演と特別公演にさほどの区別をつけていないのだけども、髙畑遊、鈴木潤子、篠原正明、川崎麻里子、田畑菜々子、土田有未といった劇団員が数多く揃った本公演の”圧”はやはり凄まじいものがあって、考えを改め直す。ナカゴーの本公演は凄い。普通の劇団であれば1人いれば充分であろう濃いキャラクターがこれでもかと舞台に積み上がっていく。田畑菜々子演じる幽霊の一人語りの見事さから、「うわ、凄い」と圧倒されてしまった。そして、私はもう髙畑遊の発する言葉は何だって面白い領域に突入してしまっている。

ラーメンはいつだって食べたい
炒飯はたまに食べたい

という台詞をあれ以上面白く発せる人なんているだろうか。と言いつつも、今作の最大の魅力は、東葛スポーツから客演した金山寿甲 という役者にあるだろう。江戸っ子としての圧倒的な色気と実存感。そして、際立ったその発話。メダルゲームの説明や映画のあらすじを語るだけの独白があれだけおもしろいというのは一体全体どういうからくりなのか。


開場から開演までの30分間、劇中の衣装を纏った出演者が舞台上に入れ替わりに登場し、台詞を発し始める。最初は「練習かな」と思うのだけども、本番と同じテンションと声量で遂行されるそれらは、これから上演される舞台の断片そのものであるらしい。それはただの予告編に留まらず、それぞれの演者がバラバラの時制で断片を披露しているにも関わらず、舞台上で本編とはまったく違う形で噛み合ってしまうよう演出されていて、1つの別の作品としても楽しめてしまう。また、断片的に切り取られることでナカゴーという劇団が持つ身体性の特異さと台詞の強度がより浮き彫りになったことも興味深かった。この方法論で生真面目に作品を作り上げたら、鎌田順也はチェルフィッチュ的な場所にだって辿り着けるのではないか、という妄想まで催してしまう。


カットアップして披露される断片でもって、街の中華屋を舞台とした古典的ホームドラマという物語の大枠は把握できてしまうわけだけども、物語の脱構築はこれだけに留まらない。本編が始まると、幽霊を名乗る女がナレーションとして登場し、これから巻き起こるあらすじをさらに細かく説明してしまうのだ。ここまでネタバレしてしまって、はたして楽しめるのだろうか?と誰もが思うわけだけども、これが信じられないほどに面白いのである。もうほとんどパーフェクトのように感じた。まずもって、台詞の研ぎ澄まされ方が圧倒的。開演前のカットアップにしても、「台詞だけ抜き取ってもおもしろいでしょ?」という挑発なのではないかと思うほどで、それらが見事に応酬し、絡み合っていく心地よさは、期待のハードルをいとも簡単に越えていく。定石からの絶妙なズラし、強度あるギャグ、巧みな固有名詞の抜き取り、そこかしこに散らばめられた批評性、そして涙腺を刺激するハートウォーム、どこをどっても完璧ではないか。


タイトルである”ていで”というのは、「~の体で」というやつである。ここ最近の鎌田順也の作品は、序盤でハートウォーミングドラマの体を為しながら、中盤からギアを変えて、阿吽絶叫のスラップスティックに転化していくのが定石であったわけだが、この『ていで』においては、最後まで人情話としての”てい”を崩さない。照明や美術の演出、老婆を演じる若者など、演劇の持つ”虚構”を徹底的にイジり倒しながらも、”演じる”という行為を通して、人が持つ可愛らしさ、おかしみを炙り出す。そして、辿り着くおおらかな肯定。高畑遊が何度か繰り出す「かまわない かまわない」というコミカルなギャグが、人間とハクビシンの間で営まれる禁断の恋を、いとも簡単に許してしまう。鎌田順也としては、あくまで人情話の”てい”でしかないのかもしれないが、まんまと泣かされてしまった。

*1:個人的には大ナカゴー『評価』(2012)の座・高円寺2以来かもしれない