青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

チョ・クァンジン『梨泰院クラス』

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『愛の不時着』から『梨泰院クラス』という実にありきたりなルートを歩んだわたしは今、あのイガグリ頭が目に焼き付いて離れないのである。『梨泰院クラス』というドラマを駆動させているのは“土下座”であるからして、”頭”というのは重要なモチーフとなっている。パク・セロイというキャラクターを象徴するあのイガグリ頭。2年後、7年後、4年後・・・というように鮮やかに時間軸を飛ばしていくドラマメイクの中で、登場人物たちのルックスやファッションもまた変容していくのだが、セロイの髪型だけは不変である。そして、セロイの頭を触る癖。照れ、気まずさ、悲しみ、怒りといった感情が込み上げた時、セロイはまず自らの頭を撫でる。また、他者への愛情表現を行う際も、相手の頭を撫でてあげる。

すごいな

と言ってイソの頭を撫でるシーンはこのドラマのアイキャッチとしてあまりに優秀で、世界中の人々がパク・ソジュンにハートを奪われたことは想像に難くない。このドラマにおけるもっとも素晴らしい”頭“を巡るシークエンスは7話だろう。セロイが自らの生い立ちに隠された真実、そして復讐の計画をイソに打ち明ける。セロイの膝に”頭を“置いて横たわったイソは、セロイの身体に刻まれた無数の傷に気づき、涙する。それがセロイの抱える悲しみの象徴であるかのように。

イソ「1人でつらかったでしょ」
セロイ「少しね」

そんな風にして2人の交感が果たされた帰りのバスの中でもまた、イソの”頭“はセロイの肩に置かれることになる。睡魔に負けてグラグラと揺れるイソの頭を愛おしそうに自らの肩に導くセロイ。『梨泰院クラス』において、心というのは”頭“にあるのかもしれない。であるから、セロイは頑なに土下座を拒み、ジッと前を見据える。


土下座を巡る物語である『梨泰院クラス』は、青春版『半沢直樹』というような紹介のされ方をしているようだ。しかし、このドラマを「痛快な復讐劇×青春群像劇」という風にレジュメしてしまうことに戸惑いを覚える。もちろんドラマの軸となっているのは、パク・セロイの長家への復讐、そしてセロイ、イソ、スアを巡る恋の三角関係だ。しかし、復讐の対象となる長家の会長チャン・デヒという存在がどうしても、前述のまとめを拒む。どういうことかというと、このドラマは「セロイとチャン・デヒの15年に及ぶ壮大なラブストーリー」であるように思えてしかたないのである。「俺が気になるんですね?」「信じていました」「ゴールはあんただ」「すごい男でした」「価値観は違えどもリスペクトしていました」「この闘いには価値があった」といったセロイがチャン会長に向ける言葉の瑞々しさ。なによりも、セロイは父を亡くして空っぽになった心にチャン会長への“復讐”の2文字を刻むことで、生きる気力を取り戻すのである。チャン会長もまた、病魔に犯され弱り切ったところ、セロイからの挑発によって生命力が湧き出していく。13話における電話でのそのやりとりが2人のハイライトと言えるだろう。

チャン「なんの用だ」
セロイ「聞きました_ガンを患ったと
    死ぬんですか?」
チャン「君は…」
セロイ「そんなにあっけなく死ぬなんて卑怯です
    天罰?冗談じゃない、罰は僕が下す
    まだ死ぬな」
チャン「(俺の生存を望む唯一の人が君とは…)面白い
    ああ…俺の最後の楽しみは君だ」
セロイ「近々 伺います」
チャン「長くは待てない 急ぐんだな」


ここに横たわっているのは“憎しみ”という感情かもしれない。しかし、互いの存在が生きることの意味となっていることは否定できないだろう。穂村弘という歌人の一首を想い出す。

こんなめにきみをあわせる人間は
ぼくのほかにはありはしないよ

この短歌は江戸川乱歩『人間彪』において、明智探偵が宿敵に向けて放った言葉からインスパイアされて作られたものだそうで、まさにセロイとチャン・デヒの関係性である。愛憎を超越した圧倒的な結びつき。ドラマを貫くこの感触が、『梨泰院クラス』を韓国映画やドラマの伝統ともいえる復讐劇や恋の三角関係というフォーマットに収まることを許さない。もちろん、セロイの長家への復讐はしっかりと果たされるのだけども、ドラマに流れるのは復讐というよりも”許し“のフィーリングだ。「人間は誰しも悪(弱いもの)である」という劇中でも登場する性悪説。そんな人間の”弱さ“や”ずるさ“を、「いいんだよ」「お前は悪くない」「理由があるんだろ」「俺に何をしてもいい」「お前が何をしようが俺は揺るがない」「逃げていい」というようにセロイはひたすらに許していく。そんなセロイの“許し”の積み重ねが、このドラマのメッセージの強度を高めていく。

自分は自分だから
お前はお前だから
他人を納得させなくていい

自分が人生の主体であり
信念を貫き通せる人生
それが目的です

セロイの経営する「タンバム」のメンバーは様々な“生きづらさ”を抱えた人々だ。ほぼすべての登場人物は孤児であり、またソシオパス、トランスジェンダー、元ヤクザ、婚外子、アフリカ系韓国人といったマイノリティである点が、ポリティカル・コレクトネスの観点からも称賛されている。そういった登場人物たちが、「誰からも阻害されることなく、自分の人生を生きる」ことを目指して社会と闘う様が、ドラマを観る者の胸を撃つ。


しかし、マイノリティであるから生きづらいのでなく、「生きるということは、誰しもおしなべてつらいものである」というのもこのドラマの主張だ。人生は往々にして苦い。しかし、誰にも時には”甘い夜”というのが訪れる。それは悲しみや寂しさから解放された、完璧で愛おしい時間。たとえば、セロイやスアと過ごしたハロウィンの梨泰院の夜。あんな時間をいつかもう1度過ごせますように。そして、みんなのに苦い夜が甘くなりますように、という祈りを込めて、セロイは自らの経営する飲食店を“タンバム「甘い夜」”と名付ける。


ドラマの中で最初に放たれる言葉というのはとても重要で、作品の方向性を指し示していることが多い。『梨泰院クラス』ではイソのカウセリングシーンから始まる。

カウンセラー「寝る前によく考えることは?
イソ「ちょっとヤバくて 変に思われるかも
   地球が…滅びればいいのにって」
カウンセラー「何か悪いことでもあったの?」
イソ「別にないけど、何か生きるのが面倒っていうか」
<中略>
カウンセラー「主にどういう時に思うの?」
イソ「いつもです。人生って同じことの繰り返しでしょ?」

そんなイソの人生観を変えるのがセロイである。「退屈な毎日でもいつかはときめくことが起きるかもしれないぞ」とセロイは説く。辛くて、悲しい日々の繰り返しの中でも、ときには甘い夜が訪れる。だからこそ、人は生きることを諦めないでいられるのだろう。


ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を手にしたイソが呟く。

イソ「分かる」
セロイ「何が?」
イソ「もし来世があるなら私は生まれてきたくなかった」
セロイ「どういう意味だ?」
イソ「生きるのってつらいでしょ
   すごくつらいのに
   会長(セロイ)に会ってからこの一節がすごくしみる」


“何度でもいい むごい人生よ もう一度”