アジズ・アンサリ『マスター・オブ・ゼロ』Season 1
ソフトバンクの広告が若者たちを「スマホと大人になっていく たぶん初めての人類」と表現していたのだけども、アメリカでは1980年代から2000年頃に生まれた世代を一括りで”ミレニアル世代”と呼び、デジタルネイティブ扱いしているらしい。なるほど、アラサーである我々は「初めてのスマホを持って大人になった人類」なのかもしれない。大人になりきれているのかは、さておき。
完全に時流に乗り遅れているのだけども、2016年にエミー賞の脚本賞を受賞したNetflixオリジナルドラマ『マスター・オブ・ゼロ』のシーズン1を今更ながら鑑賞して、すっかり感動に包まれてしまった。現代を生きる、スマホを持たされた大人達の”切実さ”みたいなものが、見事にドラマに落とし込まれていたからだ。「界隈で1番美味しいタコスにありつく為、ネットであらゆる情報を検索して、ピックアップした店に赴くも、検索に時間をかけ過ぎたせいでタコスは売り切れていた」という、まさに”現代のことわざ”のようなエピソードがシーズン1の最終話に登場するのだけども、これがまさに象徴的。「選択肢は無限、しかし、それゆえに何も選べない」というジレンマを皮肉たっぷりユーモラスに描き切っている。*1主人公デフ(アジズ・アンサリ)は30代前半の独身男性である。「結婚は?」「子どもは?」「持ち家は?」「ローンは?」「転職は?」と、ライフプランにおける大きな選択を次々とこなしていかなくてはならないお年頃。そういった人生における大きな決断においても、いつでもスマートフォンが側にあり、Googleがもたらす大量な情報の渦で溺れ、立ち尽くしてしまう。
デフは役者としてそれなりの収入を得ながらも、その仕事に情熱はない。パートナーには困っていないが、結婚して親になる事には”ためらい”がある。個性的な仲間や恋人*2と楽しい日々を過ごしている。かと言って、このままダラダラと時が過ぎていけばいい、とも思っていない。タイトルの『マスター・オブ・ゼロ』は、”何も極めていない”という意味で、まさに何も決断していない状況を指している。観ているこちらも身につまされてしまうほどに、今作が描いているテーマはリアルで切実だ。しかし、アジズ・アンサリの語り口は実に洗練されていてファニー。重苦しいところはまるでない。
つまるところ、『マスター・オブ・ゼロ』が描いているのは、「一つを選択すると、他のあらゆる選択肢が消滅してしまう」という恐怖に立ち往生する人々だ。しかし、デフはシーズン1の最終話において、「パスタ職人を志し、イタリアへと旅立つ」という決断をする。その選択の影には、恋人であるレイチェル(ノエル・ウェルズ)との別れという”喪失”が巣食っているわけだが、デフがパスタにのめり込むきっかけもまた、レイチェルがプレゼントしたパスタメイカーであった。一つの選択を果たした時、他の選択肢は確かに消えてしまうのかもしれない。しかし、消滅した選択肢たちは、選びとった”道”に確かな影響を与え、息づいている。だとすれば、どんな喪失も恐れる必要はないではないか!!アジズ・アンサリのこの物語の結びに、ひどく勇気づけられてしまったことを告白したい。
「選択の多様性」を描くと同時に、この『マスター・オブ・ゼロ』は多様性そのものを描いている。つまりは、あらゆる価値観が共存する街ニューヨークを、いや、アメリカという国を。インド系アメリカ人であるデフをはじめ、黒人、女性、LGBTなど、これまで差別される側であったマイノリティが多く登場し、今なお根付く差別問題にメスを入れていく。自虐を交えて、ユーモラスに、あくまで物語の歯車の一つとして。そのバランス感覚の秀逸さには、海外ドラマのレベルの高さに圧倒されてしまうことしきり。『マスター・オブ・ゼロ』というのは邦題で、原題は『マスター・オブ・ナン (Master of None)」である。意味は同じなのだけども、原題が"None ナン"いう響きを採用しているのは、「インド人=ナン」というような固定概念を皮肉っているのだろうか。*3「パスタ職人を志すインド人」というラストも、そのギャップに思わず笑ってしまいそうになるのだけども、そんな”ギャップ”すらも、もはや存在してはならないのだ、とアジズ・アンサリは訴えかけている。
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同じくNetflixオリジナルであるジャド・アパトーによるこの『ラブ』は、『マスター・オブ・ゼロ』とすこぶる共振した作品だ。どちらも思わず「現代のウディ・アレン」という言葉が頭をよぎる。ウディ・アレンもジャド・アパトーもアジズ・アンサリも共にスタンダップ・コメディアン出身。アレンとアパトーがユダヤ系、アンサリはインド系とマイノリティ寄りのニューヨーカーである。