ギヨーム・ブラック『やさしい人』
エリック・ロメール、ジャック・ロジェ、フランソワ・トリュフォーいったフランスの伝統と、ジャド・アパトー、グレッグ・モットーラ周辺のアメリカン童貞ムービーのヴァイブスとを融合させてしまうという、その現代的なハイブリットな感性を、『女っ気なし』『遭難者』という2本の短編で存分に示してくれたギヨーム・ブラックは、個人的に現行の最重要映画人に位置づけられている。そんな彼の待望の商業長編1作目。これがもう想像以上に素晴らしく、「大好きだ!」と声高に叫びたい気持ち。先日、製作費500億円を超える宇宙映画にひどく感動したわけだけども、それ以上に、このトネールというフランスの小さな田舎町を捉えた小じんまりとした映画に心震わされてしまった。そういう事もある。ブラックの映画には、生きていく上で不可避な”孤独”という感情が、さり気なく、滲み出るようにしてフィルムに収められている。『女っ気なし』『遭難者』と同様に粒子の粗い、それでいて格別な光を捉える16mmフィルムでの撮影。舞台を前作のヴァカンスの夏から一転させ、寒々しい冬の景色を収めている。降り積もる雪には”孤独”が詰まっている。しかし、ブラックは、その積もった雪に刻まれる”足跡”を最も重要なものとして、映画を形作っていく。
その志は中年マクシム(ヴァンサン・マケーニュ)と若く瑞々しい少女(ソレーヌ・リゴ)の恋物語に託される。かつてはインディーズでそれなりの人気を誇ったという音楽家マクシムが恋に落ちる女性の名が”メロディ”である事は偶然ではないはずだ。この映画において、音は重要なモチーフとなっている。メロディからのメール連絡は着信音で鳴らされ、音楽家マクシムに喜びをもたらすと共に、その”沈黙”もしくは拒絶の音は、あまりに深い悲しみを与える。悲しみのあまり孤独が溢れ出たマクシムの嗚咽の嵐のような、決して埋まる事のない空洞から鳴り響くような強烈な音色はどうだ。あのヴァンサン・マケーニュの素晴らしき熱演に胸打たれないなんて嘘だろう。
映画は前半のロマンティックコメディ、後半のノワールサスペンスと2つの側面を見せる。その中で、「ガラス越しに見つめる」「穴をくぐる」といった行為が反復され、その質感の差異を生々しく提示してくる。しかし、2つのパートにおいて、共通なのが、「雪道を踏みしめる」という行為であり、劇中の言葉を借りれば”生きた証を刻む”という事であり、”他人には奪えない自分だけの時間”を獲得するという事なのだ。“メロディ”を失ったマクシムが、映画の冒頭で口にした”リズム”という言葉を他者と共有し始める。その姿はささやかな希望で満ちている。
切返し、ロングといったショットの的確な選択も、物語に見事に奉仕している。前作から一転細身となったヴァンサン・マケーニュの革ジャンを纏った無茶苦茶なダンス、ベルナール・メネズの父親役の素晴らしさや、ソレーヌ・リゴの弾ける肉体、嘘みたいな犬の熱演などなど言及したい細部に溢れているのですが、とりあえず「ぜひとも観て欲しい!」とだけ書いて終わりにします。