青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『花束みたいな恋をした』

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<A面>

絹(有村架純)が「この人はわたしに話しかけてくれている」と心酔するブログ『恋愛生存率』ではいつも同じテーマが綴られていた。それは、”はじまりはおわりのはじまり“。

出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティーのようにいつしか終わる。だから恋する者たちは好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、お喋りをし、その切なさを楽しむしかないのだ

ある日、ブログの筆者である”めい“は恋に落ち、「数パーセントに満たない生存率の恋愛をわたしは生き残る」と綴ったその一年後に自ら命を絶ってしまう。

めいさんが死んだ
恋の死を見たんだろうか。その死に殉ずることにしたんだろうか。どれも想像に過ぎないし、そこに自分の恋愛を重ねるつもりはない

としながらも、絹の頭には「どんな恋でも、いつしか必ず終わりを迎える」という諦念が刷り込まれている。麦(菅田将暉)が何気なく言ってのける「僕の人生の目標は絹ちゃんとの現状維持です」が、どれほど困難なことかにも気付いてしまっている(でも、決してそれを口にはしない)。離れがたい分身のような存在に、どんなに運命的に出会おうとも、「王子様とお姫様はその後ずっと幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で済ませられるほど、恋がイージーではないことに絹のみならず多くの人が気づいてしまっている。そんな現代において、ラブストーリーはその先を描かなくてはいけない。社会があって、生活があって、お金が必要で、そして何より緩やかに冷めていく恋の結末を。

恋愛って生ものだからさ、賞味期限があるんだよ

ずっと同じだけ好きでいるなんて無理だよ

というように、『花束みたいな恋をした』は、資本主義社会や就職活動で生き抜くことの厳しさを織り込みながらも、あくまでラブストーリーとして、王子様とお姫様の恋の”めでたしめでたし“のその先を描こうとしている。恋に賞味期限はあるのか?という難題に立ち向かうのだ。

国立科学博物館でミイラ展がはじまる。
そうは見えないかもしれないけど、これ、内心歓喜し、むせび泣いているわたし

今はミイラ展のことだけを考えよう。これ以上何も望むまい。

ミイラがかくも絹の心を掴んでいるのは何故だろう。ミイラ、腐敗せずに原形を残した状態の死体。死してなおもこの世に形を残し続けるというそのあり様に、絹は惹かれているのだ。そう、めいが『恋愛生存率』で書くテーマがいつも同じだったように、坂元裕二もまた同一のテーマを物語に内在させている。それは最初のヒット作にも刻まれまれている。*1

恋愛はさ 参加することに意義があるんだから
たとえダメだったとしてもさ
人が人を好きになった瞬間って、ずーっとずーっと残っていくものだよ
それだけが生きてく勇気になる
暗い夜道を照らす懐中電灯になるんだよ


東京ラブストーリー』(1991)

ずっとね 思ってたんです
いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまうって
私 私たち 今 かけがえのない時間の中にいる
二度と戻らない時間の中にいるって
それぐらい眩しかった
こんなこともうないから 後から思い出して
眩しくて眩しくて泣いてしまうんだろうなぁって

 
いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016)

私の好きはその辺にゴロゴロしてるっていうか
ふふっ、寝っ転がってて・・・
で、ちょっと ちょっとだけがんばる時ってあるでしょ?
住所を真っ直ぐ書かなきゃいけない時とか
エスカレーターの下りに乗る時とか
バスを乗り間違えないようにする時とか
白い服着てナポリタン食べる時
そういうね 時にね その人が いつもちょっといるの
いて エプロンかけてくれるの
そしたらちょっと頑張れる

 
『カルテット』(2017)

誰かに向けた”想い“は、たとえその恋が報われなかろうと、終わってしまったとしても、決して消えることはない。まるでミイラのように、“腐ることなく”この世に留まり続け、その後の人生を照らす”光“となるのだ。それが、「恋に賞味期限はあるのか?」という問いへの坂元裕二の回答だ。今作における白眉はまぎれもなく、“光”そのものを体現したような清原果耶と細田佳央太という若きカップル、そして見つめる終わりゆく絹と麦。恋の美しさと切なさを描き切ったファミレスでのシークエンスだろう。


時を経て、二人は街で再会する。言葉を交わすことはないが、互いの行末とこれまでの健闘を讃えるかのように(「我々のこれまでの道のりは美しかった!」)、視線を合わすことなく手を振り、次の恋へと歩き出していく。そして、家路についた二人のモノローグ。

今日、元カレにばったり会った。多分あれはわたしがあげたイヤホン。二人でSMAPの「たいせつ」聴いたな。SMAPが解散しなかったら、わたしたちも別れてなかったかな。なんて馬鹿なことを思った。

今日、元カノにばったり会った。きのこ帝国が活動休止したこと、『粋な夜電波』が終わったこと、今村夏子が芥川賞を取ったこと、どう思ったかな。多摩川の氾濫の時、ニュース見て何思ったかな。

彼の部屋にはじめて行った時、髪の毛乾かしてもらったな。雨降ってたな。焼きおにぎり美味しかったな。近所のあのパン屋のご夫婦、今頃どうしてるだろ。トイレットペーパー買えたかな。

よく二人で行ったパン屋があった気がする。あの焼きそばパンまた食べたいな。

二人の恋は終わった。しかし、その形跡は残り続け、一人で過ごす夜をこんな風にして、そっと慰める。過去から訪れる愛情を、手紙のように受け取りながら、わたしたちは前に進んでいく。そして、驚くべきことに、そんな恋の跡がGoogleマップに記録されていた!という完璧な結末。「人が人を好きになった瞬間って、ずーっとずーっと残っていくものだよ」という高らかな宣言から30年、坂元裕二をそれを軽やかに可視化してみせたのだ。


かつて、まるで一つの生き物のように分かり合えた人がいた。決して消えることのないそんな記憶こそが、終わってしまった恋からの、手向けの花束なのだ。



<B面>

映画は、イヤホンを一本ずつ分け合うカップルへの文句から始まる。

音楽ってね、モノラルじゃないの。ステレオなんだよ。イヤホンで聴いたらLとRで鳴ってる音は違う。Lでギターが鳴ってる時、Rはドラムだけ聞こえてる。片方ずつで聴いたらそれはもう別の曲なんだよ。

ベーコンレタスサンド、ベーコンとレタスで分けて食べました。それベーコンレタスサンド?かつ丼を二人で分けて、一人がかつを全部食べました。もう一人が食べたものは?

同じ曲聴いてるつもりだけで、違うの、彼女と彼は今違う音楽を聴いてるの。

離れた場所から文句をつけている二人にとって、恋愛というのは、“同じであること”のようだ。すべてを分かり合える、互いを同一視してしまうような存在と巡り合うことは、確かに恋愛の一つの理想の形である。もちろん、自分に足りないものを相手に求める恋愛も正しく、色んな恋愛の形があるのは当然なのだが、この映画の二人においては“同じであること”が、最高の恋として描かれていく。ジャックパーセル、絡まってしまうイヤホン、栞代わりの映画の半券、チケットを取ったのに行けなかったライブ、そして、その極め付けとしての、ほぼうちの本棚じゃん。”同じであること“は互いに愛するポップカルチャーを確認し合うことで高まっていく。押井守天竺鼠cero穂村弘長嶋有、『粋な夜電波』、『宝石の国』、『ゴールデンカムイ』etc・・・一方で二人の恋が崩れていく様子もまた、ポップルチャーとの距離を通して描かれていく。再演を共に待ち侘びていた『わたしの星』を一人で鑑賞し、楽しみにしていた『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』を一人でプレイし、薦めた『茄子の輝き』は読まれることがなく、『ストレンジャー・シングス』や『マスター・オブ・ゼロ』を画面で共有することなく、一人パソコンで鑑賞するようになる。そんな風にして少しずつ“同じ“でなくなっていく二人。一緒に食べるはずだった「さわやか」のハンバーグを一人食べ、先輩の死を”同じように“悲しめなくなることで、二人の別れは決定的なものとなる。


ここには同一視する恋愛の脆さ、社会に適合していくことによるカルチャーとの別離の様子がリアルに刻まれている。「劇中に登場するカルチャーは自分の趣味ではない」という旨の発言が坂元裕二のインタビューに登場することもあり、劇中におけるポップカルチャーの羅列はリアリティを召喚するための単なる装置で、どこか冷ややかな視点すらあるのかな(たしかに二人の自意識のありようは身に覚えがありすぎる故に顔から火が出るようだ)、とも思ってしまうのだけど、それでもやっぱり、ここには愛がある。そう信じたい。GReeeeNSEKAI NO OWARIONE OK ROCKといった大きな音で流れるヒットソングに馴染めず、社会の片隅でひそやかに、小さな物語を愛し、二人きりのカラオケボックスではしゃぐ若者の懸命さは、まさしく坂元裕二の作品の登場人物のそれである。そんなどこか生き辛さを抱えた彼らを生かし続け、自らの血肉であるかのように交換し合うポップカルチャー。それら全般への坂元裕二の少しねじ曲がった愛情と感謝が、この映画には横たわっているんじゃないかなぁ。

*1:我ながら何回目の引用か、と辟易するのだけど、めいに倣うように語りたいテーマを何度でも語ろう