青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

廣木隆一×又吉直樹『火花』

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この国のテレビドラマに“火花以降”という新たな基準が設けられた、と断言したい。廣木隆一(『ヴァイブレ―タ―』『やわらかい生活』)を総監督として、白石和彌(『凶悪』『日本で一番悪い奴ら』)や沖田修一(『南国料理人』『横道世之介』)など映画界の気鋭らが集結。彼らがNetflixの豊潤な制作資金を元に作り上げたのは、ド派手なアクションに彩られたエンターテイメントでも、豪華絢爛な俳優陣による演技合戦でもない。中央線ラプソディ、とでも呼びたくなるような実に貧乏くさい小さな小さな物語だ。例えば、白石和彌が監督を務めた3話などは、終電を逃すまで飲み荒らした主人公2人が吉祥寺から上石神井までをのそのそと歩く、それだけの回だ。それらにこれほどの大きな資本と才能が注ぎこまれている。これは革命である。ここからこの国のテレビドラマは何かが変わっていく、そう信じたい。3話のみならず、このドラマでは、青春とは”夜を歩く”ことである、と言わんばかりに、ひたすらに若者たちが歩き、そして、走る。監督に課されたのは、その様子を雄弁にカメラに収めること。1話に登場する惜しみないクレーンやドローンでの撮影の躍動に刮目せよ。夜に揺らめく街灯、雨で濡れた地面に映る光。そういった映像感度の充実すべてが、この切ない青春物語に徹底的に奉仕していく。



全10話530分をかけて、とあるお笑い芸人の10年間を追っていく、という売り文句に敬遠してしまう人がいる事も想像に難くない。しかし、今作は確かにオフビートではありながらも、そんなレジュメからは想像もつかないヒリヒリとした質感に満ちている。これは誰しもが経験する”才能”を巡る青春残酷物語であるからだ。その意味で、今作は松本大洋が繰り返し描いてきた物語の系譜にあると言えるだろう。徳永が憧れ続ける師匠・神谷というバディのパワーバランスが徐々に逆転していく構造は、『鉄コン筋クリート』や『ピンポン』でのそれらのトレースのようである。であるから今作の後半はひどくもの悲しい。7話以降は、常に”泣き出す直前”といったようなフィーリングで胸を掻き毟り続け、それらはラスト2話で一気に爆発する。涙腺崩壊必至。それもこれも、フィクションの登場人物にこんなにも愛着を抱くのはいつ以来だろうという程に、徳永と神谷というキャラクターを愛してしまうからに他なるまい。『火花』という作品の画面には、巷に溢れる演技というものとは、大きくかけ離れた何かが映っている。それは1人の人間の”魂の咆哮”というようなものだ。そんなものを体現する為に、役者はどれほどの代償が払ったのだろう。今作における林遣都波岡一喜という役者の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。あまりに徳永として、神谷として、そこに”在る”のだ。であるから、彼らが目にする風景も、抱く感表も、全てがリアリティをもって響いてくる。主演2人のみならず、門脇麦好井まさお(井下好井)、村田秀亮(とろサーモン)、染谷将太菜葉菜、髙橋メアリージュン、徳永えりetc・・・といった脇を固めるメンバーもまた、誰しもが素晴らしい実存感を携えている。とりわけ、主人公の相方である山下役の好井まさおの好演は、演技初挑戦という事も含め、賞賛の嵐を浴びるにふさわしい。

火花

火花

さて、このドラマを前にして、『火花』という小説を全く読めていなかった、と正直に告白したい気持ちに駆られている。又吉直樹(ピース)は、あのか細い声からは想像もつかないほどの大きな”アイラブユー”をこの作品で叫んでいるのだ。売れない芸人が志半ばでその道を外れていく様を描いた青春残酷物語ではあるが、その視線はとても優しい。芸人を辞める決意をした徳永に師匠である神谷がこう語りかける。

この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある、だから面白いねん。でもな、徳永、淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん。一回でも舞台に立った奴は、絶対に必要やってん。これからのすべての漫才に、俺達は関わってんねん。だから、何をやってても芸人に引退はないねん。

ここにあるのは圧倒的な”生”の肯定である。芸人や表現者のみならず、この世界で酒臭い、もしくは唐揚げ臭い息を吐き続ける全ての私達の”これまで”と”これから”を肯定してくれるような、あまりにも優しいまなざしがある。ドラマではそんなテーマに補助線を引くように、徳永の住むアパートに、お役御免となった古い家電をかき集め、修理するロクさん(渡辺哲)というオリジナルキャラクターがメタファーとして存在している。



前述の台詞が繰り出される居酒屋のシーンで物語を閉じてしまっても何ら問題はないわけだが、そうはならないのが今作だ。

美しい世界をいかに台なしにするかが肝心なんや
そうすれば、おのずと現実を超越した圧倒的に美しい世界があらわれる

という劇中での神谷の台詞を呼び水にするように、失踪していた神谷が突如Fカップの巨乳を携えて現れるという、全てを台無しにするようなバカバカしいエピローグが添えられている。しかし、それがことさら今作を美しく孤高のものとしている事は誰も否定できまい。なんて偉大なる蛇足。旅館の内風呂で豊満な胸を揺らす神谷と、それに付き合い裸になる徳永。カメラは部屋を飛び出し上空にじんわりと上昇する、2人の狂騒は熱海の夜景の1つとなる。貴方が展望台から覗く美しい無数の光の1つは、おっさんのFカップが作り出しているかもしれない。そんな想像だにしない無数の夜で、この世界は作られているのだ。その途方もない尊さを、このドラマは教えてくれる。



NHKでの地上波放送が終わったわけだが、「台詞が聞き取りずらい」などの理由で、視聴率はふるわなかったらしい。悔しい。そこに加えて、キャスト・スタッフを一新しての映画化の報。しかし、この素晴らしいドラマをなかったことには絶対にしたくはない。とにかく、ひたすらに「観てくれー」と叫ぶ続けることとしよう。