ハイバイ『夫婦』
ハイバイ『夫婦』を東京芸術劇場で鑑賞。岩井秀人の作劇の新境地ではないだろうか。これまでの作品に比べて決してキャッチーではないが、その余白と余韻は、観客に自身の人生を顧みさせる懐の深さがある。演劇は現実に有効である。
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ハイバイの代表作『て』は「実体験が70%以上」と岩井自身が語っている。今作は『て』で展開された岩井家サーガーに連なる作品で、登場人物の役名にはっきり”岩井秀人”と表記されている事からもわかるように、よりノンフィクションの色合いを強めた作劇に仕上がっている。岩井家サーガーという事はつまり、”人と人のわかりあえなさ”を体現したかのような、あの父についての話である。何度も繰り返し上演されている『て』において不条理な論理と暴力で家族に君臨していた、あの父の”死”から今作は始まる。消化器系の外科医であった父が肺癌で死んだ。幼い頃から「いつか殺してやる」とまで憎み、大人になっても疎遠関係を続けてきた存在。そんな父がいざ亡くなる姿を目の当たりにした時、岩井に浮かんできたのは「無念だ」という感覚だった。おそらく岩井自身にとって理解しがたかったであろうこの感覚を、「皆さんにはわかりますか?」と問いかける。作品は父と母の出会いまで遡り、家族を巡るいくつかの断片的な語り、そして岩井が日々の生活の中で感じる他人との小さな軋轢を巧みに織り交ぜながら、憎みを抱き続けた父の死に触れる岩井の心情を観客に追体験させる。さながら『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のような構造なのだが、ここには血沸き肉踊るようなアドベンチャーはなく、暴力と、病と、手術によって流れる”血”、を巡る「ある家族の話」が静かに展開されていく。しかし、やはり我々にはわからない。外科医として仕事に人生を捧げた男が医療に殺されてしまう不条理。夫婦である事を辞めず、最期まで父に添い遂げた母の心情。何が岩井を突き動かし、彼を憎んでいた父の死の事後処理に懸命に奔走させるのか。何より今作における最大の”理解しがたさ”は、死の直前における岩井の両親の夫婦としてのありようだろう。冷え切っている、というよりも大きな諦念による断絶を何十年も維持し続けた夫婦が、闘病生活の中で再び仲睦まじく寄り添い始める。これまで追体験してきた“わかりあえなさ”が吹き飛んでしまうような超展開である。しかし、これを「愛」などという陳腐な言葉で片付けてしまいたくはないのだが、ふさわしい言葉を現状持ち合わせていない。仲睦まじさを表現する父の奇妙な笑い声や死後違った形で母の身体に傷をつける様に瞳を濡らす。”わけのわからなさ”がわけのわからないままに心を震わせるのだ。それはとても不思議な体験である。
ジョン・レノンが母の死と向き合って作り挙げた『ジョンの魂』というアルバムがあるが、まさに本作は岩井秀人にとっての『岩井の魂』である。ノンフィクションのようでいて、極めてパーソナルな作品であるからか、舞台上にいる全ての人物がどうにも岩井秀人に見えてくる。実際、舞台上には3人の岩井秀人がいる。「現在の岩井秀人役」を菅原永二が演じ、「少年時代の岩井秀人役」を田村健太郎が演じ、岩井秀人自身も医師や葬儀屋の役で登場する。であるから、岩井秀人が岩井秀人と話していたり、現在の岩井秀人が過去の岩井秀人を見つめていたりする。菅原永二と田村健太郎の"岩井"への擬態がまた絶品で、岩井そのものにしか見えない瞬間に満ちている。しかし、より興味深いのは兄も姉も岩井秀人のようだし、母もまた岩井秀人のようで、驚くべき事に父もどこか岩井秀人である点だろう。この家族の誰か1人でも欠けてしまえば、現在の自分は存在しない(当然この作品も存在しない)のだという、その当り前さが、”業”のようでもあり、祝福のようにも響いてくるわけだが、しかし、やはり「家族」というものがどういうものであるかは永遠にわからない。だからこそこの作品は我々に思考させるのだろう。