青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ハイバイ『おとこたち』


岩井秀人ネクストステージへ。この力作に応える役者陣の演技も一様に素晴らしかった。『ヒッキーシリーズ』『投げられやすい石』『て』に肩を並べること間違いなしの、ハイバイの新たな代表作の誕生に立ち会えた喜びでいっぱいだ。


4人の男性の24歳から82歳までを描く。役者は老けメイクなどを施す事も、わざとらしく喋り方を変える事もせずに、衣装と自身の身体性のみで青年から老人を演じ分けている。そうする事で、人間は1回性の生を全うしているのだ、という当たり前の事実が舞台上に横たわる。”老い”はある時期を境に突如としてのしかかってくるものでなく、あくまで若年期の延長線上にある。当然のようでいて、どうにも我々が認識し切れていない真理を提示してくる。男達は、もしかしたら将来、ブラック企業に勤めるかもしれないし、認知症になってしまうかもしれないし、不倫相手に保険金殺人を仕掛けられるかもしれないし、妻が癌に侵されるかもしれないし、家庭内暴力に陥るかもしれないし、宗教にはまるかもしれないし、突然死んでしまうかもしれない。そういった無数の生きる上でのの”哀しさ”に備える為に、作品で笑い飛ばそうではないか。ハイバイの演劇はそういう在り方をしているように思う。それゆえか、ハイバイの公演でいつも観られる光景なのだけども、ある1つのシーンで笑っている人がいれば、泣いている人もいる。複雑で曖昧な感情の機微が舞台上に立ち上がっている。例えば、カラオケシーンの素晴らしさ。冒頭であれほど笑えたCHAGE&ASKA(!!)の「太陽と埃の中で」

僕等はいつだって 風邪をひいたままさ
オイルの切れた未来のプログラム
大事に回してる
追い駆けて 追い駆けても
つかめない ものばかりさ

が終盤でリフレインされたあの時、瞳を濡らさずにいれる者がいるだろうか。こういった事を堅苦しくも重苦しくもなく、場末のカラオケボックスという空間に立ち上げてしまう岩井秀人の才能を、心から信頼してしまう。


冒頭で82歳として登場した山田(菅原永二)は、そのままシームレスに24歳へと変化し、再び歳を重ねて82歳に辿りつく。と思いきや、再び24歳に。津川(用松亮)は死んでしまったと思ったら、「おーい」という呼びかけ(三途の川の向こう岸からの声と「生まれてこいよ」という両親からの声が重なる)ですぐに鈴木(平原テツ)の息子として生まれる。1人の役者が複数の役柄をこなしたり、同じ舞台装置がスルスルと時や空間を変えていったりするように、死や生すらもシームレスに繋がれていく。こういった構造で、時間の流れというのは決して線ではなく”円”であるということを示していく。しかし、その”円”で岩井秀人が描いているのは循環の希望でもないし、ループの絶望でもない。過去とか未来とかそういった時間軸を取っ払った、楽しかったり、辛かったりもする、生々しく確かな“今”“という生の感触であるように思う。それはまさに1公演ごとに生まれては死んでいく、演劇という表現のコアそのもののようにも思う。