青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

松江哲明『フラッシュバックメモリーズ 3D』


交通事故によって、一部の記憶の消失、また新しい記憶の蓄積に障害が出てしまったディジュリドゥ奏者GOMAのライブ映像を軸に置いたドキュメンタリー。撮る事でもって、零れ落ちる記憶と時間を、せき止め保存する。この映像と記憶、時間という親和性の高いモチーフだけでちょっとグッときてしまう。境界が曖昧になる。まず、バックスリーンに映るGOMAとその妻の手記が、次第にランダムに現れ、夫婦2人の境界が無くなる。そして、GOMA&&The Jungle Rhythm Sectionの"呪術的"とさえ呼んでしまってよい、その独特の音楽を終始浴びる事で、我々観客とGOMAの脳内との境界が曖昧になっていく。これぞ、まさに体感だ。しかし、途中まで私はこのドキュメンタリーが3Dである必要性を理解していなかった。渋谷WWWでのライブ映像が手前に、バックスクリーンに映されるGOMAのかつての記憶が奥に、という多面的に脳内を体感するような仕掛け。あれは別に2Dでも体感できるはずなのだ。では、何故松江哲明はこの作品を3Dにしたか。それはディジュリドゥという楽器のその形状とその長さに他ならないのではないか、と想像する。

ライブ中、GOMAが手持ちのディジュリドゥに持ち替え、それを高くかざして演奏を始めた時、ディジュリドゥはスクリーンを突き破り、GOMAの前に、そして観客の前に確かな感触でもってそびえ立つ。GOMAが喪失から再生に向かう過程で得た「未来を信じる」という言葉が、この鮮烈なイメージに託される。つまり、この作品は3Dを採用した事により、記憶である「過去」と、演奏する「現在」、続いていく「未来」の3面構造を獲得しているのだ。その時、いささかGOMAという人格に寄りかかり過ぎていやしないかと思われた映画が、そのGOMAの強靭な意志と壮絶な人生に拮抗する事ができる。私はご多分に漏れず、『ライブテープ』の「天気予報」の件などにおける監督松江哲明の言葉による出しゃばり、を快く思っていなかったタイプの人間であるからして、被写体に対して映像でもって真摯に向き合った今作には、一粒の涙を捧げたい。