青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

つげ義春『ヨシボーの犯罪』

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先日、つげ義春の”紀行もの”の傑作『オンドル小屋』(1968)の中に、サウナ活動のヒントが隠されているかもしれないと読み直してみた。風邪を引いていたので、すこし頭がやられていたのだろう。当然ヒントは得られなかったが、久々につげ作品に目を通してみるとあまりにおもしろく、夢中になって読み漁ってしまった。あれもいいし、これもいいけど、私はやっぱり『ヨシボーの犯罪』(1979)って好きだな。あの奇天烈な短編が昔から妙に好きなのだ。たかだか10数ページの作品なので、未読の方のために、wikipediaに記載されているあらすじを、引用したい(かなり推敲してあります)。

兄と二人で自転車修理をして暮らすヨシボーは、店舗兼自宅の室内で「レジャー」というタイトルの雑誌を読み耽っている。そして、雑誌に掲載されていたビキニ姿のピンナップガールをピンセットで突き刺し、「ぴちゃぴちゃ、もりもり」と音を立てながら食べ始める。
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「うまそうな女かまずそうな女かはピンセットで1cmほど刺して見るとほぼ分かる」らしい。夢中になってピンナップガールを食べていると、表から手伝いを催促する兄の声が聞こえる。あわててピンセットを洗い、どこかに隠そうとするが、女学生が道を尋ねるようと自宅に入ってきて見つかりそうになり断念。「殺人の刑期が15年とすると発覚すれば刑期を終えると50歳だ、なんとしても隠し通さねばならない」とヨシボーは考え、自転車に乗って証拠隠滅の旅に出る。まずはピンセットを川に捨てようとするが、橋の上にいる馬に見られてしまい断念。その後、かつて勤めていた”めっき工場”へ行き、真鍮を溶かす硝酸液に捨てようとするが、工場内には液の溜まった桶が沢山置いてあり、どの桶に硝酸が入っているかが分からない。そこへ外車に乗った社長が帰ってきてしまう。ことごとく証拠隠滅に失敗するうちに、ヨシボーは見知らぬ宿場町へ迷い込む。街中には新興のマーケットもあるが人影もなく不振そうだ。気になる骨董屋も見つけたが、立ち寄るのはまた機会にしようと考える。いつしかヨシボーは、証拠隠滅の件をすっかり忘れ、自転車のベルをけたたましく鳴らしながら得意になって颯爽と町中を走り回っている。丁字路の角に2階の壁のない古民家を見つけ、その”いい感じ”にぞくぞくする。更にその先に、一軒宿の温泉を見つけて嬉しい気分になってしまう。「みんなに教えてあげよう」とヨシボーは思い、再び自転車に乗って走り出す。

あらすじを読むだけでもおわかりのように、物事の因果関係というのがまったく成立していない。疑問(ツッコミ)を抱き始めるとキリがないだろう。更に、観る者の不安を煽るように、絵柄は稚拙さを醸し出し、パースも遠近感も狂っている。つまるところ、さっぱりわからない作品なのです。かの糸井重里であったら「うーん、わかるな~、この”わからない感じ”がわかるな~」とか言うのかもしれないのだけども、確かにその”わからなさ”がいいような気がする。この作品を無理矢理に解釈しようとして、「少年の童貞喪失時における罪悪感と万能感が~」とかやってしまうと台無しなわけだ。


今作は、つげ義春が70年代後半に取り組んでいた”夢もの”の到達点であり、夢の質感をそのまま作品化するという試みが為されている。誰しもが夢を見たことがあるだろうからおわかりだろうけども、夢においては、登場人物や舞台に多少の因果はあれど、その法則性には一貫性がない。シークエンス変換なども面白いように飛び飛びであるのだが、夢を見ている最中にそういった疑問を怒らない。はたまた物理法則すらからも自由で、我々は空だって飛べてしまう。つまり“夢“というのは、この世界を規定する”律”からどこまでも自由なのだ。であるが故に、夢の中で得られる感触を異様なまでに生々しく、そしてどこか不穏でありながらも愛おしい。この『ヨシボーの犯罪』は、そういった夢に抱く感覚を完璧に捉えてしまっているように思う。「T君、自転車を貸してよ」という時のヨシボーの角張り方とか、自転車に乗る時のシルエットだとか、たまらなく魅了されてしまうシーンは枚挙に暇がないのだけども、私が今作でとりわけ好きなのは、「なんだか嬉しくなってきちゃったな」というヨシボーの表情である。彼のその実感は、あらゆる律から解き放たれているが故に、どこまでも”本当のこと”であるように思える。それが妙に私の心を安定へと導くのです。