青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

『はれときどきぶた』 矢玉四郎という作家


はれときどきぶた』という児童文学がある。ミリオンセラーを記録し、アニメ化(ワタナベシンイチによるアニメ版は原作とはほぼ別物だが、その異様なテンションはカルト的人気を誇っている)もされた作品なので、読んだ事のある人も多いのではないかと思う。小学3年生の少年が日記をつけている。ある出来事から、未来の日付で無茶苦茶な内容の日記を書いていると、その内容が現実の出来事として起こってしまう。小畑健大場つぐみデスノート』の元ネタではないか、という話もあるが、『はれときどきぶた』より以前に海外に『くもりときどきミートボール

くもりときどきミートボール (ほるぷ海外秀作絵本)

くもりときどきミートボール (ほるぷ海外秀作絵本)

という児童書が発表されているし、そもそも『ドラえもん』においても「あらかじめ日記はおそろしい」(てんとう虫コミック16巻)という類似した作品があるわけで、そのアイデア自体が斬新というわけではない。それを差し引いても、揺るがぬ魅力が矢玉作品にはある。『はれときどきぶた』がドラえもんの秘密道具からインスパイアされた、という事ではなく、矢玉四郎藤子・F・不二雄のマインドに似通ったものを持ち合わせているのは確かだろう。ちなみに矢玉四郎の初期作品に『おしいれのなかのみこたん』という「押入れ」と「猫」という『ドラえもん』を連想せずにはいられない絵本が存在する。それは、「イマジネーションの力で、子ども達にまとわりつく重力から解放してあげる」という志だ。藤子・F・不二雄

子どもの頃、僕はのび太でした

という言葉を残しているが、矢玉四郎も過去のインタビューにおいて下記のような発言をしている。

──先生はどのような子供だったんですか?


矢玉:俺はまったく人付き合いの下手な子供だし、小学校の通信簿には先生が「分かっているのに発表しない。はがゆい」って書いてあったぐらいだから・・・心臓がパクパクして手が挙げられなかったんですよ。だから不登校児の心がよく分かります。学校というヤクザな組織の組員として生きていくのはたいへんだと思います。俺みたいにナイーブだと。<中略>政治家でも、企業でも、学者などでも、感性のにぶい人ほど大声を出してボスになったり有名になったりするんですけど、俺は自分と同じように傷つきやすい子が、こんな大人もいるんだな、生きてることは楽しいんだなと思えるような本を書こう、と思ってきました。それが俺の子供時代に、なにかを与えてくれた昔の大人への恩返しにもなるしね。

このインタビューに、矢玉作品に心掴まれてしまう理由が、ハッキリと言語化されてしまっている。『はれときどきぶた』における、鉛筆の天ぷら、空を飛ぶ金魚、伸びる首・・・そんな荒唐無稽なイメージの数々は、確実に幼い私の世界を慰め、拡張してくれていた。そして、その総決算として空から降ってくる豚。

このシーンには、ポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』における”カエル”さながらに全ての価値観を無化し、許してくれるような豊かさがある。シリーズ3作目にあたる『ぼくときどきぶた』はもっと凄い。

ぼくときどきぶた (あたらしい創作童話)

ぼくときどきぶた (あたらしい創作童話)

人、動物、乗物、大仏、更には太陽までもがブタになってしまうという超絶展開が待ち受けているのだ。神様や自然までひっくるめて価値観を転覆させている!このラディカルさ。


はれときどきぶた』のあとがきを読んで頂ければ、矢玉四郎という人を信頼するのにそう時間はかからないだろう。

則安君は、あしたの日記を書くために、でたらめなことをいろいろ考えた。「ばかなことばっかり考えて」と思った人もいるかもしれない。でも、ばかなことを考えるのは、あんがいむつかしいことなんだ。それに、ばかなことを百くらい考えていると、そのうちひとつくらいは、すばらしいことを考えだせるだろう。


電球を発明した人だって、はじめて飛行機をとばした人だって、ヨットで太平洋をわたった人だって、みんなはじめは「ばかなことをいって」と笑われたんだ。なにかを決めるときに、手をあげて多数決というのをやるだろう。これは便利な方法だけど、ときにはよくないこともある。多くの人はまちがっていて、ひとりだけ正しかったということもよくあることだ。だから自分の感じたこと、考えたことはちゃんと言えるようにならなくちゃいけない。ばかなことをはっきりいえなくちゃいけないんだ。人に笑われても、おこられてもいいんだ。


学校では教科書をおぼえればいいかもしれないが、遊びには教科書はない。自分で新しい遊びかたをつくらなきゃおもしろくない。それと同じで、おとなになったら自分の教科書は自分でつくらなくちゃいけないんだ。だから、いまのうちから、いろんなことを考えることのできる頭をつくっておくことだ。きみもあしたの日記を書いてみよう。

これはクリエイト論でもあるし、くだらない枠組みに押しつぶされそうなナイーブな感性を持った子供達にとっての(いや大人にとっても)福音でもある。自由で豊かな発想というのは誰にも阻害されてはならない。シリーズの最高峰は4作目の『ぼくへそまでまんが』、5作目の『ゆめからゆめんぼ』だろう。

ぼくへそまでまんが (あたらしい創作童話)

ぼくへそまでまんが (あたらしい創作童話)

ゆめからゆめんぼ (あたらしい創作童話)

ゆめからゆめんぼ (あたらしい創作童話)

嫌な事があたら漫画に書いて笑い飛ばせばいい、という『ぼくへそまでまんが』のマインドにどれほど勇気づけられたことか。ギャグは冴え渡っているし(まんが首にガラス人間!)、街がグニャグニャになり化物で溢れかえる、クライマックスの痛快さ。何より漫画という芸術への深い愛がある。『ゆめからゆめんぼ』も強烈。夢を作る夢工場があってそれを「ゆめびんや」が夜な夜な配っている、という設定もどこか藤子・F・不二雄的である。かつ非常にサイケデリックな1作。こちらもあとがきがよいのだ。

目を覚ましているとき、人は「こういうことをしてはおかしい」とか、「こんなことをいったら、はずかしい」とか、いろんなことを考えて、心に思ったことを、そのまま出さずに、抑えつけている。ところが、夢のなかでは、そういう抑えがとれて、心が勝手に暴れまわる。昼間ともだちにいじわるをされたとき、がまんしたとする。でもがまんしたのだから、くやしいという思いは、心のなかに残っているわけだ。仕返しをしてやろうとか、こんどやっつけてやるとか、そういう考えが心のなかにはある。くやしい思いを外にださないで、心のなかにおいて置くと、どんどん育って、大きくなっていく。それが、夜寝たときに、夢になって出てくるんだ。夢のなかでは、相手を簡単にやっつけてしまうかもしれない。反対にもっとやられてしまう夢を見るかもしれない。どっちにしても、心の奥にあったものが、飛びだしてきて、夢になるわけだ。昼間、押さえつけられていたものを、夢のなかで暴れさせてやることで、心はスカッとする。だから、夢は心の遊園地みたいなものだ。おばけやしきかもしれないけど。
<中略>
夢は、だれにもじゃまされない、自分だけの楽しい遊園地なんだ。遊園地では思いきって、冒険してあそぼう。

矢玉四郎は一貫して、子ども達を”常識”という鎖から解放しようとしている。圧倒的なイマジネーションの連続でもって。ちなみに矢玉四郎は現在もバリバリの現役で、2013年には『はれぶた』シリーズの新作を発表している。