panpanya『動物たち』
キャラクターを俳優に見立て、同じ特徴の人物をあらゆる作品に抜擢する「スター・システム」というのが漫画界にあって、手塚治虫作品におけるヒゲオヤジやロックといったキャラクターを思い浮かべて頂くとわかりやすいだろうか。これまでに発表された単行本3作からするに、panpanyaもまたそのシステムを採用していて、それはこの最新作『動物たち』においてより大胆に遂行されている。オカッパの少女、長髪の少女、犬のレオナルド、タコ顔の男性、イルカ、今作のほぼ全ての役柄をこの5人のキャラクターで演じ分けている。
タコ顔の不動産屋や保健所職員なんていうものは本来であれば存在し得ないわけだが、それを読む私たちは何の違和感を持たずにそれを受け入れ、読み進めていく。しかし、私たちは(無意識に)記憶下にある体験やイメージとしての”不動産家”や”保健所職員”やというイメージを呼び起こしていて、それを通してpanpanyaの描くタコや犬を眺めているはず。今作において、長髪の少女が、眼鏡と男性用スーツを身につけただけで、少女の面影はそのままに、会社の部長役を演じてみせているあたりにも顕著なのだけど、panpanyaは「スター・システム」という漫画表現を利用して、悪戯っぽく、我々の認識定義に揺さぶりをかけている。「~らしさ」というのは、その対象物に存在するのでなく、その対象物とそれを見つめる者との間で結びついたあやふやな何かだ。認識定義というのは、つまりは、世界のものの見方ということで、それはとても脆い。panpanyaがやわらかいタッチでそれを刺激してみせると、世界はいとも簡単にグニャグニャと拡張していく。
そんな通奏低音のもとに、狸、猯、狢といった定義の曖昧な動物達が記号化された同一のルックでキュートに活劇してみせる数編がこの『動物たち』の肝。個人的には、”引っ越し”を端としたエッセイのような趣の数編に最も心奪われた。引っ越し当日、いつもは駅に向かうまでの目印である定食屋が、腹が減っている”今”通りかかってみると、そこが定食屋である事には何ら変わらないのに、初めて目的地に変容する。その定食屋が、とてもリーズナブルで美味しく、もっと早く入っていればよかったな、と思う。無用の長物であるはずのスタンプカードは、その町のことを思い出す為のきっかけにもなるんじゃないか。認識による世界のシームレスな変容。他にも、押しボタンを押すとすぐに変わる信号機、割れたまま舗装されない道、など、その場所に訪れないと思い出さないような思い出。思い出は頭の中ではなく、場所に宿るのか。引っ越した部屋で初めて眠る夜、に感じる音の距離と強度、それを聞きわける耳の能力について。そんなとりとめもない記憶や場所にまつわる思考の断片の連なりが、緩やかな物語を形作るというそのpanpanyaの筆致に、保坂和志を想起する1冊でありました。