青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

岡田恵和『ど根性ガエル』10話

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うーん。決して悪くはないのだけど「まぁ、こんなものか」という域を抜け出してこなかった。『泣くな、はらちゃん』も同様だったが、岡田恵和という作家は、どうしても伝えたい事があると、物語の紡ぎ方が非常に粗くなってしまう。どうも作劇がぎこちなくなる。なので、それなりに感動はするのだけど、面白くはないのだ。この最終回、ようは「終わらせない」という事と「生まれたからにはいてよしっ!」という事を繰り返し叫び続けているわけです。物語が必ずや終わってしまう運命にあるのなら、続きは俺たちで書いていこうぜ、と。ジーンとはきてしまうわけですが、しかし、それならばきちんと”青春”に「バイバイ」と手を振った『木更津キャッツアイ』、もしくは同じく満島ひかりをヒロインに据え、「あー楽しかった」と”青春”に別れを告げた『ごめんね青春!』といった宮藤官九郎作品に軍配が挙がる。似たようなテーマ、スタッフ、キャストで挑んでも、木皿泉宮藤官九郎の作品との差は残念ながら大きい。


「続きは俺たちで書いていこうぜ」というトーンは、ひろしの母ちゃん(薬師丸ひろ子)のTシャツに新たに女の子カエルが貼り付いてしまった・・・という示唆を含んだラストを用意させる。うーん、それであればひろしBに貼り付けばいいのに、と思ってしまった。ひろしBとは?最終話に突如登場した、ひろしにソックリだけど、どこかオドオドとしていて覇気のないコソ泥男、彼がひろしBである。会社を辞め、好きな子にプロポーズもできず、生きる気力を失っているという。そんなひろしBに対して「まるでピョン吉に出会わなかったひろしだね」「あんたに足りないのは根性だ!」とストレートに言い放ってしまう作劇の単調さも目をつぶれないが、何とピョン吉の復活は、このひろしBによって為されるのだ。ひろしのピョン吉の出会いの場面を再現しようとセッティングされた場に、ひろしBが誤って紛れ込んでしまう。ゴリライモに投げ飛ばされたひろしBの胸元には黄色いカエルがいて・・・というのが復活の展開。ここまでするのであれば、また別のひろしとピョン吉の物語が始まっていく、というのではダメだったのだろうか。そうする事によって、Tシャツであるピョン吉を”着替える”という運動が更なる意味を持って広がっていったのでは、と思う。

終わらない歌を歌おう

とかつて叫んだのは、奇しくも今作のエンディングテーマ「エルビス(仮)」を担当しているヒロトマーシーだった。1985年、ちょうど30年前のこと。これまた偶然か、今作のひろしや京子ちゃんは30歳。明確な意思の元に、河野プロデューサーは「終わらない歌を歌おう」をドラマで描こうとしたのだろう。話は脱線していくのだけど2015年現在、河野Pにザ・ブルーハーツがいたように、僕達にはフジロッ久(仮)というバンドがいて、彼らがMCでこんな事を言っていた。

ちゃんと終わらせて、またちゃんと始めて、ちゃんと始めたことがまたちゃんと終わって、ちゃんと始まって
それが死んだとしても、また誰かがちゃんと始めて、終わらせて
そうやって続いていくことが、終わらないただ一つの方法なんじゃないないかなと思いました

いや、まさにその通り。ブルーハーツが歌ってからちょうど30年生きてきた僕達の気分をまさにそれだ!という気がする。多分、ひろしBのTシャツにピョン吉Bが貼り付くという”プランB”が脚本にはあったのではないかと推測される。色々熟考を重ねての選択だったのだろうけど、続編や映画化に色気を持たせてのプランAだったのなら、ちと悲しい。