青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

岡田恵和『ど根性ガエル』5話

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皆様、ドラマ『ど根性ガエル』ご覧になっておりますでしょうか。4話で少し上向いた視聴率も、5話では再び7%にダウン。視聴率が全てでないのは重々承知ですが、この数字で判断される事も少なくないのが現状。なんとか2ケタに持っていて欲しい!という程に肩入れしたくなるほどの意欲作なのだ。Tシャツに貼り付いたカエルというファンタジックでキャッチーなアイコンと平易な言葉でもって、”時の流れ”とか”世界の在り方”のようなものと対峙しようとしている。甘味はきいてもシュガーレス、お母さんもぜひお子様にすすめて上げて下さい(Ⓒエキセントリック少年ボーイのテーマ)。さて、5話。取引先とのパンの卸値の言い争いだとか、ベビーカーめがけて転げ落ちるスイカだとか、事件の細部の描き込みが弱く、やや淡白な印象もあるが、そういった表層の事件の下でうごめいている運動の構成が実に見事だ。


人間は皆何かに片想いをしてるの。それが 生きてるってこと。
恋であれ、何であれね。

欠落を埋めようともがく、それこそが生きるという事。何かに対する”片想い”、その→(矢印)が、この世の中を熱くしているのだ。京子ちゃんのお祖母ちゃんはその運動を”無い物ねだり”と呼ぶ。では、ピョン吉が埋めたがる欠落は何か。自分が貼り付く前に流れていたひろしの”時間”である。ひろしとの別れが近い事を悟ったピョン吉は、ひろしとの「これから」や「これまで」のみならず、「知らない時間」にまで片想いするのだ。泣かせる。ひろしが子ども時代に夢中になっていたとう「クワガタ獲り」を一緒にやりたいと言う。そのピョン吉の願いが、ひろし、母ちゃん、五郎、京子ちゃんを巻き込み、結果として、あらゆる大人全ての”無い物ねだり”であろう、”夏休み”という時間が全員に等しく流れるラストの見事さ。冒頭とラストでのピョン吉の深呼吸の反復も心地よい。


また、印象的だったのは登場人物の属性がシームレスに変化していく点。くじ引きと衣装を着替える事でひろしが社長となり(由利徹オマージュは渋過ぎる)、ゴリライモが平社員になる。教室に入り、机に座る事で梅さんがよし子先生の生徒になる。五郎は警官の制服を脱ぐ事で一般市民となり歩道橋を使わずに道路を渡る。また、五郎の「母ちゃん」という呼びかけで、血の繋がらないもの同士が家族になる。これまで必ず「ひろし先輩の母ちゃん」と呼んでいただけに、2回目の「母ちゃん」という呼びかけは、ピョン吉の”死”を共有した2人の強い繋がりを我々に提示するのである。こういったシームレスな変化が、「いっそカエルから人間になりたい」というピョン吉の願いと共鳴する仕組みとなっている。


片想いは美しいんだよ。
世界は、片想いで出来てるんだよ。

これは『ど根性ガエル』と同じく河野英裕プロデューサーの元、岡田恵和が脚本を担当した『泣くな、はらちゃん

「泣くな、はらちゃん」DVD-BOX

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第2話における薬師丸ひろ子の台詞(しかも、役柄は母ちゃんと同じく生産ラインのパートリーダーである)。両作は同じ事を伝えようとしているが、『ど根性ガエル』は更に一歩踏み込んでいるように思える。なんせ、主人公のひろしはその”片想い”の対象さえ見つける事ができないのだ。「京子ちゃんと結婚する!」と意気込むものの、その突拍子もなさに自分でも気づいていて、どこか醒めた感じさえある。とにかく、彼には目標や目的がない。故に変化のない毎日がつまらない、となかなか根性を出す事ができずにいる。そんなひろしにピョン吉が言う。

おいらの無い物ねだりは、ずっとひろしと一緒に生きることだい。おいら、死にたくねぇ。カエルだから死んじまうんなら、だったら人間になりてぇ。人間になってひろしと一緒に生きていきてぇ。だって、いっつも同じ家で寝てさ、同じもの食ってるだろ?おいらだってずっとみんなと一緒に生きてぇよ。これがおいらの、無い物ねだりだぜ。<中略>生きてるだけでいいだろってことだい!ひろし、根性で生きようぜ!生きてるだけで楽しいだろ?答え探してんのが楽しいだろ!?

そう、重要なのは目的や目標じゃない。それらは全て代替可能なマクガフィンだ。動機はなくていい、目的もなくていい。大切なのは、進んでいく矢印そのもの。その→を伸ばし続ける為に必要なのが”根性”なのである。今を楽しくがむしゃらに生きろ、ピョン吉からのシンプルで力強いメッセージである。