青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

コリン・トレボロウ『ジュラシック・ワールド』

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素晴らしい!紛れもなく正当な『ジュラシック・パーク』(1993)の続編にして、シリーズ最高傑作。琥珀に閉じ込められた太古の蚊が吸った血の中から恐竜のDNAを採取し、現代に復元させる。その劇中における手さばきは、今作で監督を務めたコリン・トレボロウと制作総指揮のスティーヴン・スピルバーグの関係性にトレースされている。コリン・トレボロウはスピルバーグのネイチャー(T・レックス)か、ハイブリット(インドミナス・レックス)か?その問いには両方である、と答えたい。スピルバーグ演出のオマージュの嵐の中にも新しい風が吹いている。例えば、スピルバーグ映画において魅力的な成人女性など登場しただろうか!?と言うほどにうれしい誤算なブライス・ダラス・ハワードロン・ハワードの娘!)の好演。とりわけ、まっすぐ整えられていた前髪が乱れ、シャツの胸元をはだけ出してからは、彼女の独壇場でありました。しかし、やはり涙せずにはいられないのは、往年のスピルバーグ演出へのリスペクト。例えば、とてつもなく巨大な何かを見上げるその憧憬のまなざし。リヤドアが開いたままのトラックの疾走。バックミラーに映り込む異物。とりわけ感動的なのは、暗闇の中を走る埃を纏った光のビーム。『E.T.

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は懐中電灯映画だったが、今作はバイク映画だ。もしくは、そこいるはずなのになかなか姿を見せてくれないT・レックス(対照的に何度も海中から飛び出すモササウルス)、画面を通り過ぎたと思いきや、戻ってくるインドミナス・レックス。あぁ、ビデオで繰り返し観てきた演出の妙技の数々よ。完全に余談になりますが、『ジュラシック・パーク』のレンタルビデオを借りて、家族全員でリビングで観ていた時に、両親が「な?あの時、この恐竜の姿を見せなかったから、このシーンが効いてくるんだ!」と興奮気味に解説してくれた事が非常に幸福な記憶として残って、ある意味、映画批評の原点だ。私が8歳とか9歳頃のお話。


さて、そのシリーズ1作目である『ジュラシック・パーク』からの連なりを意識した演出も実に素晴らしい。テーマソング、オークションで購入したという旧パークのロゴ入りTシャツ、暗視ゴーグル、唾吐き恐竜スピッター、Mr.DNAなど、甘く記憶を揺さぶってくる事象が点在しているのだけど、注目したいのは2つのシーン。まず、廃墟となった20年前のパークに今作の主人公たちが足を踏み入れる所。少年2人がパークに落ちていたタペストリーにマッチで火を灯し、道を照らすのだ。そして、クライマックスにおいてクレアがT・レックスを召喚するシーケンス。『ジュラシック・パーク』においてグラント博士が印象的に扱ったあの発炎筒を手にし、赤い炎でT・レックスを誘導する。そうなのだ、『ジュラシック・パーク』という過去の遺産へ敬礼する際、必ず火を灯し、それをかざすのである。そのリスペクトの姿勢に痺れるのです。その後、待ちうけている恐竜たちの闘い。神々の闘いのようと言いますか、神話めいた趣があって、痺れまくりました。


スピルバーグの残した名言として、頻繁に紹介される「私の映画は、両親が離婚した子どもたちに向けられたものだ」というのがあって、スピルバーグオマージュと言えば、J・J・エイブラムスの『SUPER8』(大好き)

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しかり、まずは複雑な家庭環境という事になる。今作においてもそれは徹底していて、2人の少年の両親は離婚調停中。その母親とパークの責任者である妹のクレア、2人の子ども時代にも何やら父の不在の気配が会話から聞いてとれる。更に、誰もが愛さずにはいられないあの恐竜オタク、ロウリーにすら何やら複雑な家庭環境を匂わせる台詞が用意されている。こうなってくると、元軍人で、バイク乗り。コカ・コーラを嗜むタフガイ、とまさに「アメリカの父」という感じのクリス・プラットに誰もがメロメロになってしまうのは当然の事である。両親が離婚した子どもたち、つまり、帰る場所を失った者達に、映画の光を当て、その輪郭を確かなものにしてあげる。それがスピルバーグ映画だ。先のスピルバーグの言葉を(戸田奈津子のように)超訳してしまえば、この世の映画は全ての孤児の為にある。


しかし、クリス・プラットは最高だ。久しぶりに表れた大スターというオーラがある。『ガーディアン・オブ・ザ・ギャラクシーズ』だけに縛られずに、『STAR WARS』とかにも出て欲しいし、噂されている『インディー・ジョンーズ』のリブート版の主役というのも是非実現して欲しい。36歳という年齢も絶妙で、『ジュラシック・ワールド』においても、立入禁止であろうが廃墟だろうが電圧1万ボルトだろうが、ひたすら扉を開けまくる少年2人(多分10回以上は扉を開く)に対して、彼が演じるオーウェンは、閉まりかけの扉に滑り込む、という演出が多用される。その対比。ラスト、パートナーを得た2人が、おおらかに開けた明かりの差し込む扉に向かって歩き出すのは、だからこそ感動的だ。