青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

ランジャタイという漫才師について

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ランジャタイ、そのコンビ名はおそらく「蘭奢待」に由来すると思われる。東大寺正倉院に収蔵されている香木で、それを嗅ぐ事のできるのは天下人の証と言われていた名宝である。なんというものをコンビ名に冠しているのだろう。彼らはお笑い界の天下を獲るつもりなのだ!!ネットで調べてみると、”ランジャタイ”という競走馬もいるようなので、そちらからの引用の可能性もなくはありません。


彼らの漫才のどこに痺れてしまったかというと、その圧倒的なイマジネーションの連なりである。ザリガニの”ザリちゃん”の話から始まり、授業参観の教室や野球場と場面が突如に転換されていく。その転換には何の脈絡もない。ボケの国崎の「授業参観来て」「野球しよう」といった一言だけでイメージをポーンと跳躍させながら、かけ離れた世界が確かに繋がっていってしまう。そこにはまるで創造主が手のひらで世界をもて遊ぶかのような強度がある。これは「イリュージョン漫才」と呼んでいいものではないだろうか。故・立川談志の提唱した”イリュージョン”という概念。立川談志の著作『最後の落語論』によれば、

談志 最後の落語論

談志 最後の落語論

現実には〝かけ離れている〟もの同士をイリュージョンでつないでいく。そのつなぎ方におもしろさを感じる了見が、第三者とぴったり合ったときの嬉しさ。〝何が可笑しいのか〟と聞かれても、具体的には説明ができない。でも可笑しい。

とある。理解不能な不完全さや不条理さこそが"人間"そのものであり、それを肯定するのが落語であり、現代的な”笑い”でなのだ、と説いている。かけ離れているものを繋ぎ合わせる、これに現代が抱える”孤独”の救済というイメージを託してしまうのはセンチメンタルが過ぎるか。


”イリュージョン”という概念の適用は落語にのみ留まっておらず、例えばその最たるのが宮崎駿大林宣彦らの後期の映画作品。もしくは、さくらももこを代表としたギャグ漫画、サンプルやロロといった小劇場劇団、柴田聡子といったシンガーソングライターの詩世界などなど、あらゆる表現の世界で圧倒的にマイノリティながらも大いに花乱れていると言える。勿論、漫才の世界においても同様で、POISON GIRL BAND浜口浜村の漫才にその息吹を感じ興奮していた所に、なりふりかまわずそれを体現するランジャタイという漫才師の出会いに打ちのめされた次第なのであります。現状においては情報があまりにない。NSCを辞めて、SMA、浅井企画、マセキと事務所を転々としているという情報も見かけたが定かではない。現在はオフィス北野預かりという説も。一体どういう人達なのだろう。完全に心を奪われてしまった。