青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

高橋栄樹『DOCUMENTARY of AKB48 The time has come 少女たちは、今、その背中に何を想う?』


AKB48グループの1年半を追ったドキュメンタリー、と呼ぶには重要なトピックが多く抜け落ちている。狙いは絞られている。大島優子卒業、チーム組閣、コンサート中止、グループ内の上下関係、震災、握手会傷害事件・・・高橋栄樹は少女達の”涙”を収める事に執着している。そのフォーカスが、AKB48のその俗物性に潜む「見えざる者の力に翻弄される少女達」の姿が浮からせる。彼女達が翻弄されているのは”大人の企み”の一言で片づけられてしまうようなものなのだろうけども、そういう話ではない。断片の数々を繋ぎ合わす事で浮か上がってくる「何か」が、映画なのであり、ドキュメンタリーと銘を打っていても、史実をそのまま写し撮る必要などないのだ(というより、そんなことは不可能だ)。例えば、サーフィンに興じている大島優子がボードに乗り岸へ向かっていく、という何ら変哲のないショットに、「AKBを離れ芸能界の荒波に1人で立ち向かう」もしくは「闘いを降りて元の場所に還る」といったイメージを重ねてしまう、その作為性が映画の醍醐味だ。社会の常識や一般論を取り外してこの映画に映し出され彼女達を見つめてみる。”見えざる者の力”に翻弄されながらも抵抗を続けるその少女達の刹那は、どうにも胸を打つと言わざるをえないだろう。


今作の主役に据えられているのは大島優子。彼女がなかなかに魅せる。前作までのミューズ前田敦子の実存のなさとは対照的に、その存在をはっきりとスクリーンに刻んでいる。躍動する肉体、家族や友人達、涙。そして何より、大胆なクローズアップに耐えうるその瞳が圧倒的。最前線で「見えざる者」と戦い続けてきた彼女は、ついぞその闘いから降りる決意をする。しかし、野外卒業コンサート当日に記録的な暴風雨が襲う。「簡単にこの戦いから降りられると思うなよ」と言わんばかりに。決行が絶望的な大雨の状況で、レインコートを纏った大島優子と生演奏のピアニストが大勢のスタッフにビニールで守られ熱唱するリハーサル風景。冗談みたいな画だが、どうにも鎮魂歌然として見えるシークエンスは間違いなく今作のハイライト。劇伴のworld's end girlfriendの音楽が、大島優子の神話性を増長させる。いや、そもそもこの死臭の強いAKBドキュメンタリーシリーズの音楽を担当するのが「世界の終わりの女の子」というのは出来過ぎたジョークだ。


第2弾にあった前田敦子のステージ上でのフライングゲットの画だとか、第3弾での「恋愛禁止条例」での恐ろしい編集だとか、そういう引きが少ない。増え続けるAKB48グループのメンバーはもはや誰が誰だか把握するのも困難になってきて、情報処理が画面に追いつかない。一見さんお断りの様相が本数を重ねるごとに強まっていく。