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川上未映子『愛の夢とか』

愛の夢とか

愛の夢とか

全ての短編の底に流れているもののキーワードを挙げるならば「震災」「大島弓子」「村上春樹」ではないかと思っている。震災が村上春樹の「喪失」と共鳴し、そこに大島弓子の「肯定」が混在している。これは凄い作品ではないだろうか。谷崎潤一郎賞を受賞しているわけで評価はされているのだろうけども、どうも軽く見られがちな作家なような気もする。彼女の凄さは何か?江國香織が帯によせている

一冊まるごと全部が言葉にならないはずのものでできている。

が適した評なのではないかと思う。心理的表現を内面に潜って書くのでなく、所作であったり空気、匂い、光、音、色などで人間の実存を描き切ってしまう力だ。優れたカメラが彼女の作品には存在する。例えば「日曜日はどこへ」という短編なのだけど、

わたしは錆びた門の前に立って、自分が誰にも見つけてもらえない人間であることを、わたしに会いたいと思う人間なんてひとりもいないのだということを打ち消すように、アイフォンをさわってどうでもいいような記事を読みつづけた。リンクからリンクへ飛び、そこに映されるどうでもいい文章をただ目に入れてスクロールしつづけた。そしてだんだん何をしているのかわからなくなった。顔をあげると、放置されて傷んだ自転車のわきを、猫がゆっくりと横切っていくのが見えた。ふいに、どうしようもない淋しさがこみあげてきた。

とこのように書けてしまうこと。猫がゆっくりと横切る、という本来、何でもないその運動で私は何故か泣けてしまう。また、彼女の小説はドラマとしてもとても優れている。前述の「日曜日はどこへ」という作品は、30代の女性がある有名小説家の死のニュースをきっかけに、かつての恋人との約束を思い出す所から始まる。

その小説家の書いた本をわたしはすべて持っていて、そしてそのすべてを読んでいて、もっと若いころとか、もう少し若かったころは、ほんとうに隅から隅までよく読んだものだった。というか読書をする日本のほとんどの人たちがそれぞれにとくべつな思い入れをもって読んでいるような作家だから、そのことじたいは何でもないようなことかもしれなかったけれど、それでも、やっぱりわたしはどこかがとても興奮していて、悲しいというのでもないし、悔しいというのでもないし、でも確実になにかがめりこんでいる感じがする

とあって、私はこの小説家というのは村上春樹を想定して書いているのではないかという気がしている。その「喪失」があの「3.11」以降の空気を含み描いている。

わたしの頭のなかの目は、彼の文章とか、表紙とか、それからやっぱり彼の本をはじめて読んだ十代のころの。これを何と呼べいいのだろう?匂いでもないし風景でもないし、制服でもないし会話でもないし、でもかつてたしかにそこにいて、そしてもう二度ともどれない場所とそこに流れていた様々なものを見つめていて、散歩した道とか、はじめての彼の小説を教えてもらったときのこととか、何時間も何日も、彼の小説について話をしたこと、交換した手紙とか。ティーバックをマグカップから引き上げて小さなお皿においたとき、わたしは雨宮くんのことを思いだした。

いつだったか、雨宮くんと植物園を歩いていたときに(わたしたちはよく植物園を散歩した)、もしわたしたちがこのさき別れるようなことがあっても、その小説家が死んだら必ず会うことにしようと約束をした。どこにいても?そう。誰かほかにつきあっている人がいても?そうだよ。じゃあ結婚していてもだね。そうだよ。いいよ、わかった。ねえ、おじいちゃんとかおばあちゃんとかになって死にかけていても?そうだよ。場所は、いつもの植物園の入り口にした。

この14年前の約束を実行しようと、彼女は植物園へと向かう。

目に入ってくるもの、匂いとなってやってくるものの何もかもが、たまらなかった。今の自分がいつを生きている自分なのかが、足を一歩ふみだすたびに、ほどけてゆくのが見えるようだった。着ていたワンピースの模様。履いていた靴の硬さ。わざと機嫌を悪くして雨宮くんを困らせた理由。夏の熱さに乾いた土のうえに大きな木の葉がつくる、ひんやりとした青い影。喉のかわき。歩きながら、色んなことを忘れたくないとつよく思ったときのこと。わたしは何もかも思いだすことができた。最後にこの道を歩いたあのときから、今のこのときまでけっして短くはない時間なんてまるでどこにもなかったかのように、わたしはいつものように、植物園までの道を歩いているのだった。

わたしはもう雨宮くんにとくべつな感情をもっていないはずだった。ぜんぶ昔のことなのだから。ただ、思いだせば少しだけ胸が痛いような気がするけれど、それは人生のある時期の色合いを思い起こせば必ずやってくる痛みであるはずだから、それはもう雨宮くんにはきっと関係のないことなのだ。わたしは深呼吸をし、こう思った。何年も時間がたって、色々なことがあって、こんふうに会えるのは、なんというか、うれしいことなのじゃないか。

しかし、彼は現れない。それで、1番最初に引用した文に繋がるわけなのですが、植物園からの帰りの電車で彼女は、大きなリュックを背負った男性と乗り合わせる。彼は、あの無くなった小説家の文庫(ボロボロになり、カバーも変色した)を読んでいた。そして、彼女と目が合うと「残念ですね」と文庫の表紙を見せながら話しかける。

でも、すごくたくさん残してくれましたからねえ。もうじゅうぶん、って気がしなくもないんですよ、と言って男性は笑った。だって、小説の数すごいですよ。それに、残ったものは、残った人間が、ずっと読み続けることができますよ。たくさん残してくれましたね、やっぱり。それから男性は黙りこみ、読書のつづきにもどっていった。そのまま数十分が過ぎて、わたしが降りるみっつ手前の駅が近づくと立ちあがり、手をあげてみせた。わたしも少し手をあげた。ドアが音を立てて閉まって電車が動きだすと、男性はふりかえることもなくあっとういうまに消え去ってしまった。電車はいつもとおなじ風景のなかをおなじ速度でわたしをいつもとおなじ場所へむかって運んでいったけれど、まるで今じゃないどこかへ走っているような、そんな気持ちがした。

電車は当然、彼女を彼女の暮らすいつもの街へと運んでいくわけで、「どこか知らない場所」なんてものは存在しない、と作品は締められるわけなのだが、しかし、絶対に彼女はあの電車の中で、日常に潜んでいる特別な場所に入ることを許され、世界に肯定されているのだ。この筆致に、空気とか匂いとか光とか音とか色で、登場人物が必ずや報われてしまう大島弓子の肯定を思う。また、「残ったものは、残った人間が、ずっと読み続けることができますよ。たくさん残してくれましたね、やっぱり。」という男性の言葉に震災以降の悲しみの向こう側がひっそりと記されているようにも思う。


愛の夢とか』に潜む村上春樹大島弓子のエッセンスはこの「日曜日はどこへ」に限らず、「お花畑自身」では「大島弓子」という固有名詞がそのまま登場するし、「三月の毛糸」という作品では村上春樹の文体を意図的にトレースしながら大島弓子『バナナブレッドのプディング』

バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)

バナナブレッドのプディング (白泉社文庫)

きょうはあしたの前日だから………だからこわくてしかたないんですわ

まあ生まれてきてごらんなさい。最高に素晴らしいことが待ってるから

川上未映子流に書き直したような作品だ。そして、極めつけは「十三月怪談」だろう。勿論あの大島弓子の傑作『四月怪談』

四月怪談 (白泉社文庫)

四月怪談 (白泉社文庫)

へのオマージュであり、幽霊となった妻が夫を見つめる話である。

なんでこんなことになってるのかって自分なりに考えると<中略>わたしは少女漫画でそういうのをすっごく読んだ記憶があって、いまでもいくつだってタイトルを思いだせるくらいに、すっごく読んだ。よくあるのが交通事故。ほかには部活中の事故みたいのできれいなまま死んじゃって、死んだ女の子は死んだことに気がつかないで、なんか空中をふわふわしてたらさきにおなじように死んで成仏してない幽霊の先輩みたいなのがやっぱりふわふわ飛んできて、それでいろいろ説明してくれて、その女の子にはもちろん片思いの人がいるんだな。片思いの人はもちろん生きてる人間で。で、幽霊の状態で、生きてる人たちをふわふわしながら観察して、知らなかったことにいろいろ気づいたりして後悔したり泣いたり、ほかには幽霊的な能力をつかって助けたりとか、そういうことして、やり遂げた感みたいので成仏してっていうか、微笑みながら消えちゃうか、あるいは、チャンスみたいなのがもらえて、生の世界にもどってみんな驚いておおさわぎ、みたいなことになって、生きかえったら片思いも成就して、みたいなの、ほんとうにもうたくさん読んだから、わたしもただ、死んだあとはそういうものだってそういう話をなぞっているだけのような気が、しないでもない。

この作品は幽霊という題材で、視線の混じり合う尊さであったり、

あいかわらず潤一は時子の紺色のパーカーを着て毎日を過ごしていたけれど、その意味も、面影も、声も、ふたりで過ごした時間も、なにもかもが日々のなかで確実に薄く遠くなっていくのだった。眠る前に眺めてみる時子の洋服はそのまま変わらずそこにあったし潤一の行動も見た目にはなにも変わらなかったけど、けれどそれを支えているもの、支えていたものは確実にやせてゆき、実家のにおい、現在のにおいが覆いかぶさるようにして時子のにおいを少しずつ逃がし、潤一が東京から連れてきた時子のきれはしは、やがてどこにもなくなってしまった。<中略>物から感情は刻々と剥がれおち、最初はそのことに後ろめさと寂しさのようなものを感じていたけれど、時子のいた場所を離れた時間を何年も重ねてゆくうちに穏やかな日常といまのちからは潤一の記憶の粒だちを侵食し、そこにどんな感情があったのか、それじたいに気づくこともなくなって、パーカーはただの時子のパーカーに、そして時子が残したものに静かにそっと折りたたまれてゆき、もうそれを広げてみることも、手にとって眺めることもなくなっていった。

といった「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」の後ろめたさが、震災以降の記憶とリンクしながら綴られている。そして、平行世界が交差しながら訪れるアクロバティックな肯定の空間をぜひ目撃して欲しい。



うーむ、引用過多で川上未映子の小説の素晴らしさを上手く伝えることができないのがもどかしい。しかし、短編集の冒頭を飾る「アイスクリーム熱」のお気に入りのセンテンスをまたしても最後引用して終わりたい。

少し意地悪そうな彼の一重まぶたの目が好きで、でもそのよさをどうやって表現すればそれをちゃんと言い終わったことになるのかがわからない。こういうときに比喩みたいなものがぱっと浮かぶといいのだけれど、わたしにはよくわからない。だから、切れ長の、とか意地の悪そうな、とかそういった何も言ってないのと同じような言い回しでしか記録することができない。でもそれも悪くないなと天井をみながらそう思う。うまく言葉にできないということは、誰にも共有されないということでもあるのだから。つまりそのよさは今のところ、わたしだけのもということだ。