『A子さんの恋人』の4巻めちゃくちゃおもしろかった。大江健三郎の『空の怪物アグイー』は今後の展開を握る鍵になるのだろうか。実写化しておもしろくなる可能性は、色々な奇跡が重ならないと難しいだろうが、A太郎が坂口健太郎ならとりあえず何でもいい。仮に向井理あたりに白羽の矢が立つことがあれば死を選ぼうということで会の意見がまとまった。高橋一生でもきっと素敵なんだけど、イッセーさんは大人の色気が出過ぎている。安室奈美恵の引退は寂しい。世代的にどうしたってスーパースターなのだ。1998年の紅白歌合戦での復帰パフォーマンスを妹とテレビにかぶりつくように見つめていたら、母が「やっぱり安室ちゃんはこの子たちの世代にとって特別な存在なのねぇ」と何やらわかったようなことを口にしていたのが妙に記憶にこびりついていて、そのことが「安室ちゃんはスターである」という私の認識を高めている気がする。小室哲哉プロデュースの曲はだいたい好きだけど、特に「SWEET 19 BLUES」と「a walk in the park」の2曲は、うちら元アムラーのソウルミュージックであった。
約20年の空白を経て、小沢健二が再び表舞台にその姿を現した。しかも、とびきりの新曲を携えて、だ。もう「懐メロ出稼ぎおじさん」といったような揶揄は通用しないだろう。ニューシングルはまさかのSEKAI NO OWARIとのコラボレーション。度肝を抜く発想と行動力でもって人々の関心を弄び、視線を釘付けにする。小沢健二のポップスターとしての強度は健在である。しかし、彼は何故、一度は真っ向から否定した音楽シーンに舞い戻ってきたのだろう。2017年4月23日にフジテレビ系で放送された『Love Music』の中で小沢健二とceroの間でこんな対話がなされている。
音楽を通じて”物語る”姿勢、その責任。そして、音楽には都市の在り方を変容させる力があるということ。そのことを改めて、ceroやSEKAI NO OWARIといった若いミュージシャンらに気づかされ、小沢健二は”ストリーテーラー”として復活を遂げたのだ。そんな風にしてポップスの世界に戻ってきた小沢健二の新曲、そこに迸るパッションはちょっと尋常ではない。何とか物事を良き方向に導こうとする力、のようなものが全編に貫かれている。言葉や音楽を通じて、この国の都市の空虚を吹き飛ばしてやるのだ、というようなメラメラと燃える革命の意思が垣間見える。いや、そもそも90年代の小沢健二も「喜びを他の誰かと分かりあう!それだけがこの世の中を熱くする!」と世界を変容せんとす、革命家であった。しかし、当時の楽曲は「喜びを分かりあう誰か」を探し求める青年のナイーブなドキュメントの側面が強かった。それこそが「いちょう並木のセレナーデ」といった楽曲群が今でもなお私たちの胸を切なく締めつける秘密なわけだけども、家庭を持ち、”他の誰か”の存在が明確になった現在の楽曲は、また一段階ギアが変わったような力強さを備えている。
意思は言葉を変え
言葉は都市を変えていく
「流動体について」
都市と家庭を作る 神話の力
「シナモン(都市と家庭)」
小沢健二は都市を家々の連なりと捉え、都市のありかたを変える為に、まず家庭というものに魔法をかけていく。そこでリリースされたシングルが、まるで子どもに読み聞かせるかのような『フクロウの声が聞こえる』である。そのコラボレーションの相手には賛否両論があるようだが、シーンのど真ん中への浸透力はもちろん、ソングライティング、編曲センス、歌唱力・・・どこをとっても、SEKAI NO OWARIが若手ミュージシャンの中で群を抜いた存在であることは、現行のポップミュージックフリークであれば自明のこと。
実際のところ、彼らの持つチャイルディッシュで全能感溢れるサウンドと服部隆之率いるオーケストラの相乗効果は聞いての通りで、”魔法的”と呼ぶにふさわしい、生命の躍動そのものみたいな音が鳴っている。ライブ披露時のXTCもしくはムーンライダーズ直系というような渋めのバージョンも捨てがたいが、このシングルアレンジによって楽曲の持つスケール感が格段に底上げされた。リリックに目を向けてみると、チョコレートのスープ、怪物、スーパーヒーロー、クマさん・・・まるで童話のようなフレーズが散らばめられている。それらはかつて両親(小澤昔ばなし研究所)から読み聞かされたノスタルジーであり、子どもたちの未来に向けたまなざしでもあるのだろう。小沢健二はSEKAI NO OWARIの深瀬慧に、自らの息子たち(もしくは若い自分自身)の姿を重ね、読み聞かせるように歌っている。いや、読み聞かせるというのではなく、共に森の中を進むことで、何か”大きなもの”を伝えようとしているようだ。それには何より物語が有効だ。小沢健二は、子ども達の「虚構の中から"本当のこと"を探し当てる力」を信じ抜いてている。