青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

今井一暁『ドラえもん のび太の宝島』

f:id:hiko1985:20180313104345j:plain
川村元気という海賊による略奪。奪われたのは、藤子・F・不二雄ドラえもん』、ロバート・ルイス・スティーヴンソン『宝島』という児童文学が誇る偉大なフォーマットだ。今作のベースにスティーヴンソンの『宝島』が置かれる必然性がまったく理解できなかった。

映画ドラえもん のび太の南海大冒険 [DVD]

映画ドラえもん のび太の南海大冒険 [DVD]

ドラえもん のび太の南海大冒険』(1998)は、のび太が『宝島』を夢中になって読み、宝探しに強い憧れを持つところから始まる。しかし、今作は出木杉への対抗心から、宝探しを始めようとするわけで、なんというかピントがズレている。果てには、地球エネルギーという大きなSFに飛躍し、『宝島』のマインドは希薄になっていく。また、親子の絆の描写に大きく時間を割いたゆえ、キャプテンシルバー率いる海賊の書き込みがないがしろにされている。どうして現代に海賊がいるのか、何故あんなにも高度な文明を有しているのか、過去の遺産である財宝の価値・・・そういった”すこし不思議(SF)”に対して納得のいくハッタリを埋め尽くすことに注力する、それが藤子・F・不二雄という作家だった。その作業こそが、わたしたちを日常から非日常へと連れ出すための「どこでもドア」だったのではないだろうか。それが設計されていない今作におけるSFはどうにも足元がおぼつかない。



川村元気を戦犯に指名してしまうのはフェアではないかもしれない。わたしたちの”感動したがり”が、あらゆるエンターテインメントを薄っぺらいものにしてしまっていて、その余波が『ドラえもん』にも及んでいるのだ。『STAND BY ME ドラえもん』(2014)はその最たる例だろう。

大人は絶対に間違えないの?
僕たちが大事にしたいと思うことはそんなに間違っているの?

当たり前だろ・・・だって僕はパパの息子なんだから

今作においても、こういった如何にもな台詞にどうしても違和感を覚えてしまう。ここに挙げた以外にも、所謂メッセージ的なものが飛び交い、混線し、そのすべてを味気ないものにしている。そして、感動的な台詞に辿り着くためにお膳立てされた物語は、どうしても貧しい。そんな言葉などなくとも、のび太たちの太古の世界や遥か彼方の宇宙での血沸き肉躍る冒険における決断やアクションの数々は、家族や友人の尊さ、自然や動物への敬意、その他多くのことをわたしたちに伝えてきたはず。



今作は歴代興行収入を更新する勢いの大ヒットを飛ばしているらしい。その一因として星野源による主題歌『ドラえもん』が貢献しているそうだ。たしかにいい曲で、劇場で子どもたちがサビを一緒に口ずさんでいる光景には思わず涙腺を刺激させられた。しかし、やはりこの曲も、わたしたちの”感動したがり”が作り出してしまったようなところがあって、『ドラえもん』という作品の魅力の一要素でしかない”感動”がふんだんに拾い上げられている。

機械だって 涙を流して
震えながら 勇気を叫ぶだろう

中越しの過去と 輝く未来を
赤い血の流れる今で 繋ごう

何者でなくても世界を救おう

う、うるせぇ。ここで、星野源の『ドラえもん』においても間奏でサンプリングされる『ぼくドラえもん』の歌詞を眺めてみよう。作詞は藤子不二雄だ。

あたまテカテカ さえてピカピカ
それがどうした ぼくドラえもん
みらいのせかいの ネコがたロボット
どんなもんだい ぼくドラえもん
キミョウ キテレツ マカフシギ
キソウテンガイ シシャゴニュウ
デマエ ジンソク ラクガキ ムヨウ
ドラえもん ドラえもん
ホンワカパッパ ホンワカパッパ
ドラえもん

そうこなくっちゃ!と震える筆致である。「それがどうした ぼくドラえもん」「ホンワカパッパ ホンワカパッパ ドラえもん」、こういったマインドが貫かれたドラえもん映画の新作が待たれる。