古沢良太『デート~恋とはどんなものかしら~』最終話
文句なしの今期ドラマNo.1作品だ。「恋愛不適合者の理系女子と文系男子の不器用なラブストーリー」という少なからずありきたりなその出発点から、誰も観た事のないまったくのオリジナルな恋愛ドラマを作り上げてしまった。既存のカルチャーからの引用やオマージュの多さも、実に現代的。その中でも、常にその存在を漂わせながら、最終回でも改めて巧(長谷川博己)の口から発せられた高橋留美子(『めぞん一刻』『らんま1/2』)と小津安二郎(『東京物語』『秋刀魚の味』)が最たるリスペクト対象なのだろう。敬意の表出は、マザコン気味な巧の、その愛する母(風吹ジュン)の名前が「谷口留美」である点にも見てとれる。*1あからさまに小津の父娘の設定をトレースしながらも、藪下家という古風な日本民家を舞台にして、これみよがしにローアングルを披露したりしない、そういった演出陣(武内英樹、石川淳、洞功二)の品の良さと禁欲性も評価したい。
とりわけ、『リーガル・ハイ』『エイプリルフールズ』(2015)といった作品でも古沢良太とタッグを組んでいた石川淳以上に、武内英樹の功績を湛えたい。武内の映画的資質が今作を一級の「スクリューボールコメディ」たらしめていた。彼の演出回で顕著であった恋のメタファーとしての”赤”の連なりは、最終回においても画面を支配する。
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久しぶりに登場した依子(杏)が揺らす”赤い”トレーニングボール。スクランブルエッグにかけるトマトケチャップ、巧が依子の頭つきで出す鼻血、依子が巧に生まれる事で発生した指の鬱血、そしてあの林檎だ。2人が林檎を齧る度に、浮かび上がる回想シーンに”赤”が満ちていた。あの林檎は、6話において”蛇”が登場している事からも、巧と依子を「アダムとイヴ」を見たてている、という説が有力のようだ。しかし、私としては依子に林檎を手渡した白石加代子の魔女然とした佇まいや、それを食べ終えた後に2人がとった行動が“キス”であった事を支持し、あの林檎は『白雪姫』(勿論、素晴らしきディズニー版だ)のそれであったと考えたい。2人はあの林檎を食べる事で、想うがゆえに離れていく、そんな恋愛不適合者としての自分を殺す。そして、すぐさま(初恋の人との!)キスで2人は蘇る。あの”赤”を分かち合うシーケンスには「生まれ変わり」のモチーフが重ねられていたのではないか。
依子の指の鬱血を呼び込み、結果、依子と鷲尾(中島裕翔)の結婚まで阻止する事となる、あの切符。しかも、「恋のブギウギトレイン」「恋の最終列車」etc・・・枚挙に暇がないほど、得てして”恋”を乗せがちな「電車」の切符である。ヤング巧がヤング依子に切符を手渡すあのシーンに、『銀河鉄道999』のメ―テル(巧の理想の相手の一要素)を想うのもいいが、重要なのは、本来駅員に回収されてしまうはずの「恋の切符」を、巧が依子に手渡していた、という事実だろう。2人は20年以上前から”あらかじめ決められた恋人”であったのだ。つまりそれはこちらのエントリーでも記した
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「誰を想った気持ちは一度発生したら消えない」というメソッドの実践である。
さて、前述のように2人は生まれ変わる。であるからして、2人はまるで始めからやり直すかのように、1話と同じく山下公園で待ち合わせ腕を組んで歩いていくのだ。桜を見に行くのだという。依子のコートの色もまた、桜に同調するように赤からピンクに染まっているではないか。恋は桃色。
ここがどこなのか どうでもいいことさ
どうやって来たのか 忘れられるかな
細野晴臣「恋は桃色」
そして、辿り着く、奇妙に1本だけ桜の生えた、どこかのようでどこでもない場所。2人だけの固有の場所。そこで「ふりむかないで」じっと桜を見つめる2人、1話の中華街での「まだ見ますか?」の反復。完璧なラスト!と少し大袈裟に驚いてみても、バチは当たらないでしょう。
*1:私は気づかなかったけど、依子の住んでいる向かいの部屋の住人の表札は「一の瀬」だったらしい。手がこんでいる!