青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

バカリズム『ホットスポット』7~10話


これまで登場人物の衣装のカラートンが話ごとに統一されていて、「これは何の伏線なのだろう?」と世間が盛り上がっているなか、「そんなの洒落た感じを出すための画調の統一だろう」くらいに思っていたわけですが、最終話で主要メンバーが異なる色調の、“隠し撮り”をするにはあまりに場違いなビビットカラーの衣装で横並んだルックに、思わず涙腺を刺激されてしまう。宇宙人、超能力者、未来人、幽霊、タイムリーパー・・・とSFモチーフの渋滞がもたらす多様性の肯定みたいなものが、画の力でバシっと示されていて、またこれまでのカラー統一からの解放があるからこそ、よりグッときてしまうではないか。


下手したら、ほらあの『E.T.』みたいに
政府の機関とかに追われちゃう可能性もないとはいえないから

えっ『E.T.』知らない?
超ヒットした映画なんだけど

E.T.』観ましたよ
あっ、観た?おもしろかったでしょ?

高橋さんってああいうのできないんですか?
なんか指ピカーみたいな

超能力者のミズポン(志田未来)の指はピカーと光り、最終話ではE.T.さながらに高橋さん(角田晃広)が月夜を跳躍して、タイトルバックが入る。清美たちアラフォーの3人がまったく『E.T.』を知らないというありえない現象が謎だったのだけど、『ホットスポット』において『E.T.』があまりに重要なピースであるがゆえ、バカリズムが煙に巻いていたのだろう。バカリズムの筆致の大きな特徴は“照れ”だ。高橋が語る母の挿話や、“エロ介”などを例に挙げるまでもなく、感動的なシーンになりそうであれば、必ずズラす。重要そうなことは煙に巻く。*1それほどに、『ホットスポット』終盤のトーンは、『E.T.』という作品のフィーリングによって決定づけられている。いや、そもそも今作のはじまりは『E.T.』を象徴するモチーフである"自転車"で通勤すること、そして自転車での交通事故からの救出で始まっていたのであった。『E.T.』というのは、少年と地球外生命体の交流を描いた作品であるが、重要なのは、E.T.と主人公エリオットとが同化していく物語であるということだ。E.T.が眠くなれば、エリオットも眠くなり、家でE.Tがお酒を飲めば、学校にいるエリオットも酔っ払う。恐怖や痛みも共有し、E.Tが弱まると、エリオットもまた衰弱していく。兄に「あいつ元気ないよ」と言われたエリオットは

“僕たち”は元気だ

と言い返す。それに対してマイケルは「“僕たち”なんてどうかしているよ」と返すのだけど、まさにこの“僕たち”というのが同化していく様を象徴する台詞と言える。そして、故郷の星に帰るE.T.は「イツモ…ボクハ…ココニ…イルヨ」とエリオットの眉間に指を当てるのだ。父の不在が影を落とす少年の孤独と、壮大な迷子となったE.T.の孤独が連帯する。『ホットスポット』に話を戻せば、あの感動的な8話だろう(「えっ?」と発する前の市川実日子の素晴らしきあの顔!!)。

高橋「まぁ孤独っちゃ孤独だけど、でもそれも仕方ないかなと思って」
清美「えっ?今も孤独ですか?うちらがいるじゃないですか」
はっち「うん、めっちゃお茶してるし」
みなぷー「なんなら全部知っているし」
高橋「そっか・・・(たしかに彼女たちにカミングアウトしてから孤独を感じることはなくなっていた)」

高橋の秘密が共有されることで、結びついていく町の住人たち*2。そして、レイクホテル閉鎖が、高橋の生命の危機という問題から、町全体の問題に発展していく。清美(市川実日子)に関しては、元夫や娘にも宇宙人の血が入っているという、家族と高橋の同化も発生し、いよいよ宇宙人というのは、“わたしたちの問題“となっていく。

高橋さんだけの問題じゃなくて
うちらみんなの問題なんで
そんなに気使わなくたって大丈夫ですよ

孤独なわたしが、うちら(=“わたしたち”)に拡張していくという実に感動的なシーンであるが、奢るつもりであった缶コーヒー代を請求するという高橋の器の小ささを披露することでバカリズムは照れてみせる。思い返せば、跳躍した高橋が月夜と重なるという衒いのない『E.T.』オマージュも、ビルからの跳躍という後半のスパイダーマン登場の伏線となっていて、ここにもオマージュを上塗りするような“照れ”を感じる。こういった“照れ”の筆致が、単純な心温まるストーリーを回避していて、それはどういうことかというと、複数の感情が同時に存在するという複雑な人間の心理を描くことができるということだ。秘密をすぐにバラしたり、放送できないような悪口を放ったり、モラルに欠けていたり、見栄っ張りだったり、かっこつけだったり、不法侵入という犯罪行為に走ったり・・・ある一定の視聴者にはそれが「登場人物たちの性格が悪い」ということになるらしいのだけど、それは人間というものへの眼差しが幼いとしか言いようがない。人間はバカみたいに愚かで愛おしい。このリアリティがあるからこそ、バカリズムが立ち上げる世界は居心地が良いのだろう。バカリズム大先生の何打席連続になるかわからないホームラン。傑作です。

*1:余談になるが、同様の“照れ”を持ち合わせた脚本家といえば宮藤官九郎であるが、彼がキャリア前半で池袋や木更津というローカルを舞台に選び、バカリズムもまた『架空OL日記』で練馬周辺、『ブラッシュアップライフ』で埼玉県北熊谷市、今作で山梨県浅田市というローカルのコミュニティを描いている点にも共通項を感じる。

*2:最終回に舞台としてガソリンスタンドが選ばれ、しっかり警察も登場し、『ツイン・ピークス』っぽさへのオマージュも完了