青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

宇多田ヒカル、その"WILD LIFE"

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2016年4月、宇多田ヒカルが音楽活動を再開。こんなにめでたいニュースもそうそうあるまい。15日に配信が開始された「花束を君に」「真夏の通り雨」というあまりにも哀しく美しい楽曲を君は聞いたか。

花束を君に

花束を君に

真夏の通り雨

真夏の通り雨

どこまでもパーソナルな母への想い(その死別)を綴った楽曲のように聞こえる。しかい、いくら言葉を重ねようとも、本当の気持ちは伝わらないのだから、せめて花束を君に、という結びが、この2曲をどこまでも開けた普遍的な愛の歌に仕上げている。しかし、今回の新曲に限らず、宇多田ヒカルが作り上げるポップソングの源には常に母への複雑な感情が横たわっていた。というような事を雑誌インタビューの抜粋で構成した6年ほど前のエントリーを、再構築して(こっそりと)置いておきます。




主な抜粋元は『MUSICA』創刊号。

MUSICA 2007年創刊号(雑誌)

MUSICA 2007年創刊号(雑誌)

こちらに収録されているインタビューは、宇多田ヒカルというアーティストの底を覗く事のできる貴重な文献である。宇多田ヒカルがかつて語った衝撃的な言葉として

5グラムの「悲しい」と5グラムの「うれしい」は、私には同じものにしか感じられない

というのがある。この感覚が最も顕著に表れた楽曲が「日曜日の朝」だろう。

幸せとか不幸だとか 基本的に間違ったコンセプト
お祝いだ お葬式だ ゆっくり過ごす日曜の朝だ



宇多田ヒカル「日曜日の朝」

ポップソングとして耳に入れても馴染んでいかないというか、正直理解できない価値観。「私には感情がない」と言っているのと変わらないのでは。インタビューにおいても、この感覚を事細かに自らの言葉で解説している。

普通、失敗や悲しいことよりもいいことがあるように頑張るのが人生って思うんだろうけど、でも私にはそれがないのかなって最近気づいてきてきました。どこに行きたいっていうのが全然ないんですよ。もし特別な能力が授かって、「今は人生の岐路に立ってます。こっち行くと嫌なことがあって、こっち行くといいとこがあるよ」って教えてもらったとしても、「じゃあいいほうに行こう!」っていう感じじゃなくて、「ああ、どっちに行こうかな」って迷うのは変わらない。

結構、何があってもいいやって感じなんですよ。別に自暴自棄なわけでも、自分に嘘をついてるわけでも、ある時期の若者みたいに「明日死んでもいいんだ!」ってことでもなくて、本当に100歳までも生きてもいいし、明日事故に遭って脚がなくなっちゃっても別にいいやみたいな。明日視力を失っちゃったとしても「どうして私がぁ!」とか思わなくて、「ああ、そっかー」みたいな。

「何かをしたい!」とか「何かを成し遂げたい!」とか「遊びに行きたい!」とか「これを食べたい!」とか「おしゃれしたい!」とかあんまりないんですよ。人生に対して「こうなって欲しい!」とか思わないから。「こうなって欲い!」と思ってると、思い通りにいかない時辛いじゃないですか。でも元々それがないから、何があっても割と大丈夫…

壮絶。感情はおろか欲望もない。全てをあらかじめ諦めている。では何故、宇多田ヒカルはこのような感覚を持つようになったのか。そこにはやはり、母という存在が関わっている。

凄い歪んだマザコンみたいな感じ。憧れなんですよ、ずっと。凄い距離が遠くて絶対に触れ合えない、みたいな。凄く独特の世界を持っている人で。ある意味凄い閉じた人なんですよね。
<中略>
私としてはあんまり彼女が私を見ている感じがしない、みたいな。彼女から見える私の輪郭と、そこから1歩下がっている私っていうかな・・・・直接関わった気分は全くしないんですよ・・・諦めてんですかねぇ。「ママァ〜」みたいな感じは届かないっていうか、あんまり上手く行かないんですよ。それはもう、完全に子供の頃から諦めていた感じですね。「この人にそれは通じないんだ」みたいな。
<中略>
中途半端に受け入れられないんだったら、そういうことを求めない。願いが叶わないってことを学んだら、もう願わないっていう防御的なことって誰でもするじゃない?傷つくのを恐れて自粛する、みたいな。それを中途半端にやってると、結局は凄く願っているっていうのがあるから辛いと思うんですよ。でも、私は「結局は凄く願ってるな」って地点から切り離しちゃったから。完璧に離しちゃえばもう大丈夫よ!みたいなところがある。それこそもう他人って感じ。

母からの完全なる愛というものを求めるあまり、それが叶わない苦しみを覚えるくらいであれば、全ての事を諦めようとした。感情を持つ自分を切り離し、空っぽの自分を作り上げた。彼女の楽曲が圧倒的なまでに支持を受けた理由は、この絶対的な孤独と、それに対する一切の救いを求めていないところにあったのではないだろうか。宇多田ヒカルの楽曲にはナルシズムが排された”孤独”という感情が、風景や匂いのように漂っている。そして、宇多田ヒカルの中が空っぽだから、ファンは彼女の中(曲)に入ることができた。では、切り離してしまったもう一人の自分はどこに行ってしまったのだろうか。

音楽を作る時には時々その人を呼び出すんだけど

曲にメッセージみたいなものがあるとしたら、それはどの曲も同じで…胸の奥にあるザワザワしたやり切れない怒りみたいなものなんですよね。根本が怒りなんですよ。でも、普段は何に対しても怒ることって全然なくて。人生で感じる怒りの量みたいなものが決まっているとしたら、全部そこ(曲)に入ってるみたいなの。

楽曲制作時には、感情を持ったもう1人の自分を呼び出す。故に、「BE MY LAST」と言った、まるで恨み事のような、母への想いをストレートに表出した楽曲も彼女のディスコグラフィーには存在する。

母さんどうして 育てたものまで
自分で壊さなきゃならない日がくるの?
バラバラになったコラージュ
捨てられないのは何も繋げない手

しかし、2010年、彼女は音楽活動を停止し、「人間活動」を始めると宣言する。空っぽだった彼女が感情や欲望を取り戻すという事だ。活動停止前最後のリリースである『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2』には重要な新曲が2曲収められている。まず、空っぽだった自分への決別を

ありのままで 生きていけたらいいよね
大事な時 もうひとりの私が邪魔をするの

So Goodbye Happiness
何も知らずに はしゃいでた
あの頃へはもう戻れないね

と歌った「Goodbye Happiness」だ。そして、もう1曲は言うまでもなく「嵐の女神」なのだが、この楽曲のリリックの整えられてなさ。母に向けて言いたい事が溢れ出している様が伝わってくるが、ポップソングとは言い難い。その点においても今回の新曲での普遍性への飛躍はとても大きい。

嵐の女神 あなたには敵わない
心の隙間を埋めてくれるものを 探して 何度も遠回りしたよ
たくさんの愛を受けて育ったこと どうしてぼくらは忘れてしまうの
嵐の後の風はあなたの香り 嵐の通り道歩いて帰ろう
忙しき世界の片隅 受け入れることが愛なら
「許し」ってなに? きっと… 与えられるものじゃなく、与えるもの
どうして私は待ってばかりいたんだろう お母さんに会いたい
分かり合えるのも生きていればこそ 今なら言えるよ ほんとのありがとう
こんなに青い空は見たことがない 
私を迎えに行こう お帰りなさい
小さなベッドでおやすみ

「私を迎えに行こう」とあるように、かつて切り離した”感情を持った自分”と再び1つに融合したのだ。まるで『ドラゴンボール』のピッコロと神様のような話であるのだが、実際にこの時期の彼女のヴィジュアルは明らかにそれ以前とは異なる、突き抜けたヴァイブスに溢れていた。そして、前述のインタビューで語っていた「全てを諦めた」状態を抜け出し、「全てを許す」というタームに突入している事も伺える。そして、活動休止中の2012年、「桜流し」が電撃的に発表される。

あなたが守った街のどこかで今日も響く
健やかな産声を聞けたなら
きっと喜ぶでしょう
私たちの続きの足音

もう二度と会えないなんて信じられない
まだ何も伝えてない

と、1年後の母の死、そして3年後の自身の出産を予期したかのようなリリックに戦慄を覚えるわけだが、

Everybody finds love
In the end


どんなに怖くたって目を逸らさないよ
全ての終わりに愛があるなら

というフレーズがあまりに感動的だ。「生んでくれてありがとう」「生まれてきてくれてありがとう」という連鎖、生まれて育っていく法則でもって、生命の肯定を壮大なスケールで鳴らす。宇多田ヒカルというアーティストは『こどものおもちゃ』と『新世紀エヴァンゲリオン』というこの国の90年代が誇るポップカルチャーの傑作を地でいく人なのである。花束を君に?そう、まごころを、君に

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