青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

マームとジプシー『cocoon』


何かこう喉につっかかっている。ここ数年のマームとジプシーの集大成、という感触を得ながらも何だか乗り切れなかったのが正直な所だ。マームとジプシーの『cocoon』には、吉田聡子が演じる”聡子”という登場人物がいる。クラスメイトが飼っていた猫が死んでしまい、みんなが悲しんでいるときにも、「でも私、涙がでなかったんだよね」と彼女は言う。戦局のさなかでも、

死んだら過去になり、記憶になる
だから、誰が死んでも泣くことはできなかったんだよね

と繰り返す。また、尾野島慎太郎が演じる男性は、顔を蛆虫に食らい尽くされながら「(この痛み、苦しみが)想像できますか?」と挑発的に観客に呼び掛ける。藤田貴大はその独自のリフレインという手法で、記憶を執拗に再生させて、鈍感な我々に戦争を体験させようと試みているのではないか。戦争の痛みを、今、ここに、立ち上げる。あの少女達が命がけで走り、目指す海のその先は現代の我々と接続しているのだ。こう書いていくと、なんだかとても素晴らしい作品のように思えるのだが、正直その語り口はやや傲慢であるように感じ、私はこの作品の事を好きにはなれなかった。私達は果たして、そこまで鈍感であろうか。修学旅行などで沖縄や広島に訪れ、戦争体験者の方のお話を生で聞くといのを学生時代に経験した人も少なくはないだろう。あの時に元ひめゆり部隊の方から聞いた言葉は、音として僕の耳にこびりつき、今でも頭の中で自らこしらえた映像を容易に浮かび上がらせる事ができる。決して遠い世界の出来事だ、と切り捨てる事はできなかった。今日マチ子も藤田貴大もまた、そう感じたからこそ、この『cocoon』という作品に挑んだのはないのか。しかし、藤田は作品を、観客を鈍感なものとして始めている。作り手と観客の距離感、それは当然あるものなのだろうけども、これは何だかあまりにも遠いな、と思った。勿論、誰もが学生時代に戦争学習を経験しているわけではないので、ここで私が書いた批判に有効性はあまりない。でも、やはり原作の『cocoon』は想像力でもって戦場を生き抜く話であったはずで。



もう1つ釈然としないのは、今日マチ子と藤田貴大の作品の解釈の違いだ。

COCOON

COCOON

cocoon』の原作者である今日マチ子は、自作に対しこんな言葉を残している。

わたしが本当に描きたかったのは、歴史の悲劇のなかで、封印されてしまった少女の気持ちでした。いまの女子高生とおなじように、恋をしたり、くだらない話をしたり、嫉妬したり、イライラしたり、しょうもない子だったはずなのに、教科書のなかにとじこめられてしまったこと。
<中略>
歴史の中に封印される前は、一人の少年少女であったはず。もういちど、彼らを自由にできたら。少しでも彼らの気持ちを想像し、寄り添うことができたら。『cocoon』も『アノネ、』も、戦争の恐ろしさを駆け抜けたあとは、ただのラブストーリーとして読んでもらえればいいな、と思っています。

そして、今日マチ子は、マームとジプシー『cocoon』公演期間中に、ウェブサイトにて、自分の原作のコアの部分(おそらく上述の部分)と離れていってしまっている、という批判とも取れる文章を掲載する。何でそんなコアの部分を事前に話し合っていなかったのだろう、という疑問。歴史の中で名前を失った人々や感情に再び光を灯す、それは真っ当に正しい物語の在り方のように思う。しかし、今日マチ子が指摘するように、藤田貴大の視線はそこにはなかったように思う。彼が立ちあげていたのは、やはり戦争の痛みだった。少なくとも、私はそう感じたし、間違っても今日マチ子の言うようなラブストーリーには仕上がっていなかった。そもそもマームとジプシーは、今日マチ子が言う所の「悲劇のなかで、封印されてしまった少女の気持ち」、そういった類のものをリフレインという独自の手法でもって、再生させてきた劇団だった。「忘れていってしまう事」への罪悪感を、マームとジプシーはこれまで一貫して描き続け、それが生命に軋みと躍動を与えていた。大雑把な言い方をしてしまえば、マームとジプシーはいつだって”戦争”を描いていたように思う。しかし、今回は史実としての戦争に挑む事で、細部を中から食い潰されてしまった。いや、というより史実の戦争が持つ暴力性に魅せられてしまったのではないか。そんな風に感じた。勿論、藤田貴大と今日マチ子の間ですれ違いがあったように、私も藤田貴大が今回の舞台で挑んでいた事を完全に掴みあぐねているのかもしれない。しかし、これが私の正直な感想でございます。


主演の青柳いづみは素晴らしかった。あんな風に感情と呼吸をコントロールできるのか。どんどん凄くなっていくな、彼女は。対して「本当にないな」と思ったのは原田郁子による劇伴の音楽。戦争と現代を“死″で接続するつもりなのか、フィッシュマンズ「新しい人」、bloodthirsty butchersの「7月」といった故人のイメージが強い楽曲をカバー。音への意識の高さをあれほど前情報として提示しておきながら既存曲のカバーなのかぁ、とかZAK(この舞台の音響を担当している)まで一緒になってまだフィッシュマンズを連れ出してくるのか、とか色々なベクトルでとても嫌だった。ここが舞台に乗れなかった最大の要因と言っても過言ではない。