青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『大豆田とわ子と三人の元夫』1話

<A面>

オレンジ色の上下のジャージを身に纏った大豆田とわ子(松たか子)が、オレンジ色の布で囲われた公園を歩いている。このはじまりが象徴的なのだけど、この『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマにはあまりにも“オレンジ”に満ちているのだ。大豆田とわ子が入店するお洒落なパン屋の軒先、大豆田とわ子の住む部屋のカーテンとソファーと照明、大豆田とわ子が拾うパスタ、大豆田とわ子が出席した従兄弟の結婚式会場の照明、大豆田とわ子の娘が飲むオレンジジュース、大豆田とわ子の3番目の夫の髪色、2番目の夫の着るアウターの切り返し、1番目の夫の名前の響き(ハッサク*1)、大豆田とわ子の履くサンダル、大豆田とわ子の持つバッグ、大豆田とわ子の同僚の洋服、シロクマハウジングのオフィスの証明、ミニチュアの家の屋根、大豆田とわ子のiPhoneの背景トーン、大豆田とわ子が焦がれるカレーパン、大豆田とわ子の履く靴、大豆田とわ子の友人が持参した柿ピーの袋、通行人の履くスカート、通りがかる船の屋根、大豆田とわ子の娘が勉強するドリルの表紙、食器洗濯機の留め具、大豆田とわ子が誘われた映画『最高な人生のはじまりを見つける幸せなパン』の題字、大豆田とわ子の幼少期の思い出のトーン、徹夜明けの紙コップコーヒーのカバー、大豆田とわ子の同僚の洋服②、大豆田とわ子が倒して直す自転車、大豆田とわ子が穴にはまった工事現場のガードレール、大豆田とわ子が振る舞われた柳川風うどん、街灯、大豆田とわ子と元夫達が漕ぐブランコのレール・・・画面にオレンジのトーンが登場しないシークエンスは存在しないと言っていいだろう。


さらに、大豆田とわ子が待望のバスタイムに機嫌を良くして歌われる「ロマンティックあげるよ」である。松たか子のそのあまりにも卓越した歌声に耳を奪われてしまうのはさておき、「ロマンティックあげるよ」をエンディングテーマに、続けて歌われる「魔訶不思議アドベンチャー」をオープニングテーマとする『ドラゴンボール』の物語を駆動させる球体の色は、そして主人公である孫悟空の道着の色は何色だったか。身に纏うものや部屋のインテリアから、大豆田とわ子が“オレンジ”という色を好んでいることは推測されるが、その他のオレンジはランダムに規則性なく現れる。つまり、オレンジはそこかしらに点在していて、大豆田とわ子を誘惑するのだ。それはつまり、大豆田とわ子が「一つの場所に留まることができない」ということのメタファーだ。

お洒落なパン屋に(オレンジの)ジャージで入れる大豆田とわ子
商店街だって全然(オレンジの)ジャージで歩ける
なんだったら電車だって乗れる、新幹線だって

大豆田とわ子は“オレンジ”のジャージを身に纏い、どこにでも行けてしまうのだから。留まることができない大豆田とわ子は離婚を3回繰り返す。四十九日が過ぎた母親の遺骨をお墓に納めることができないし、「出港!」と冒険の旅に飛び出す船長に心惹かれしまう。


劇中を支えるのはこの大豆田とわ子の“留まれなさ”、そして、”溢れ出てしまう“というフィーリングだ。取り除きたい靴の中に入った小石、外れてしまう網戸、棚から溢れ落ちるパスタ、歯に挟まった後出てくる“味ゾンビ”としての胡麻、中身が出ちゃう餃子、飛び散る醤油の小袋、溢れるアイスカフェオレ、そして溢れて出したそれを拭く三人の元夫達。大豆とわ子は三人の元夫から逃れるように隠れた台所の引き戸からも、どうにも留まることができず、飛び出してしまう。そして、第一話は大豆田とわ子を縛りつけていた“パスワード”は解除されることで終わりを告げる。


この“留まれなさ”溢れでる”という感覚がもたらすのは、カテゴライズされることへの拒絶だ。3回の離婚歴を持つ人に出会った時、我々が抱く印象は「結婚式のスピーチは頼めない」というのとそう大差はないだろう。もしくは魔性の女?自暴自棄な人?いやしかし、我々が目撃した大豆田とわ子は、そんなありきたりな枠には当てはまらない多様な魅力を持った人間だ。留まることはできないが、幸せになることもまた諦めない。ダイバーシティという言葉が浸透したこの現代における新しい幸せのあり方*2を、大豆田とわ子が提示してくれることを望んで止まない。

まぁ色々あるさ
色々だよ
どっちか全部ってことはないでしょ
楽しいまま不安 不安なまま楽しい

<B面>

結婚式の引き出物のバームクーヘンを手掴みで歩きながら頬張るだとか、お風呂に入れてない自分の体臭を気にする仕草だとか、英字新聞がプリントされたシャツばかり着てしまうだとか、その英文を読み上げてしまうだとか、人の家のお風呂で熱唱するだとか、鼻を摘み合うだとか、「グンモー」という挨拶だとか、布団が吹っ飛んだという駄洒落で繋がりを強くする会話だとか、「ねっ?」という呼びかけだとか、三者三様のストローの咥え方だとか、喪服を着た大人がブランコを漕いでみたりだとか。こういった小さな営みが紡ぎ出す豊かなイメージの積み重ねだけで、人間の愚かさと愛おしさを描いてしまうという筆致は健在。もう抜群に面白いのだが、これまでの坂元作品に慣れた人ほど今作には面食らってしまうではないだろうか。まるで坂元裕二による自己否定のようなのだ。

離婚っていうのは自分の人生に嘘をつかなかったって証拠だよ
100円拾って使うのは犯罪だけど
100回離婚するのは犯罪じゃないからね

といういかにもな坂元節の名言が飛び出せば、「さすがいいワイン飲むと、いい事いうね」と茶化されるし、自身を雑談マニアと称し、その雑談力こそが作品のチャームであったはずであるのに、「雑談っていります?」と中村慎森(岡田将生)に言わせてしまう。『最高の離婚』(2013)において、物語を揺さぶり続けた“離婚”という選択をいとも容易く3度も繰り返してみせる大豆田とわ子。『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2015)なんて台詞は死んでも吐かなそうな大豆田とわ子。

人を好きになった瞬間って、ずーっとずーっと残っていくものだよ

というのは、『東京ラブストーリー』(1991)に登場して以降、繰り返し語り直されるテーマなのだけども、今作においてそれは早くも登場する。

お湯が水になり、やがて氷になったとしても、その氷は鍋で沸かしたらもう一度お湯になるよね?

お湯の水が氷になったとしても、必ずしもその氷はお湯に戻らないこともないと、僕は思う

お湯が夫婦だとしよう
その、そのお湯の熱もやがて冷めて、氷になる時
水が氷になる時
その氷はお湯だった時のことを決して忘れはしないだろう?

まるで、かまいたちの漫才のように「もう1回言ってもらえます?」「どういうことですか?」と聞き返され、3度も繰り返されギャグのように処理されてしまう。


そして、今作に漂うリッチでオシャレな質感は何事か。

洋貴「服買ったほうがいいんじゃないですか?」
双葉「え?私、なんか変な...変な服着てますか?」
洋貴「てゆうか」
双葉「変ですか?」
洋貴「今日東京行ったんですけど、結構みんな“オシャレ”でしたよ」
   (互いを指差して)こういう感じの人達あんまいなかったですよ」
双葉「あぁ...私は、まぁこういうので充分です」
洋貴「僕もまぁこういうので充分ですけど」


それでも、生きてゆく』(2011)

音「(OLの彼女は)どんな服着てる?」
練「服?えっ、服はぁ....」
音「(自分の服と靴を指して)こういうのとはちょっと違うでしょ?」
練「もうちょっとオシャレっていうか...」


いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2015)


といったように、2010年以降の坂元作品を雑にまとめてしまえば、“オシャレじゃない人々”を描いていたように思う。社会に搾取され、生きづらさを湛えた人々。しかし、今作の登場人物は建設会社の社長である大豆田とわ子をはじめとして、レストランオーナー、カメラマン、弁護士といったお金に余裕があり、奥渋谷といった東京の中でも感度(と家賃)の高い街に住む人々。センス溢れる服やインテリアに囲まれて暮らしている。坂元裕二のキャリアの出発点であるトレンディドラマ時代へ行き戻るかのようだが、“生きづらさ”がデフォルトと化した現代において、エンターテイメントが提示すべきものは憧れや豊かさであるのかもしれない。


何より気にかかるのはその新たな話法だろう。映画『花束みたいな恋をした』(2021)でも顕著であったモノローグの多用は健在。さらに今作においては一人称と三人称が溶け合ったような視点のナレーション。否が応でも耳につく伊藤沙莉のナレーションが状況や心情を矢継ぎ早に説明していく。

これは歩いている大豆田とわ子
靴の中に小さい石が入ってしまった
靴の中に入った小さい石を
靴を脱がずに取り出そうと試みている大豆田とわ子

説明台詞というものを極力排除することに注力していたこれまでの坂元裕二のペンであれば、松たか子の独特な足の運動とその表情でもって、そこで起きている状況を視聴者に理解させ、さらには大豆田とわ子のどこかズボラで、周りからズレているという“人となり”までも察してください、といったような作りになっていたはず。しかし、このナレーションは大豆田とわ子についてのみ語るのだ。であるから、大豆田とわ子のため体勢を変えずに5時間じっと座っていた田中八作(松田龍平)の優しさは、さりげないストレッチ運動で示され、説明されることはない。


「元夫の珈琲に塩を入れる大豆田とわ子、船長さんとお近づきになる大豆田とわ子、元夫たちがブロッコリーで戦うのを見守る大豆田とわ子、元夫と朝を迎える大豆田とわ子・・・」というように今話のハイライトを先見せするというのに至ってはもはやご乱心としか思えない。いや、こんな風にして、作風の型にはめられることを拒んでいるのかもしれない。坂元裕二もまた、これまでの型に留まらないことを選んだのだ。網戸を外して放り投げる大豆田とわ子のように。もしくは、ボーリングのピンを少しだけ倒して見せる大豆田とわ子のように。

*1:はっさくと言えば、『最高の離婚』『問題のあるレストラン』に出てくる猫マチルダとはっさくである

*2:一人でも大丈夫だけど、誰かに大事にされたい

空気階段『anna』


普通じゃない人々への讃歌とラジオ、そしてお笑いのある世界への愛。コロナウィルスの影響で2回の延期を経て、ようやくの開演となった第4回単独公演『anna』は、彼らの代表番組『空気階段の踊り場』(TBSラジオ)がそのまま具現化されたようなコントに満ち溢れていた。そして、空気階段の2人の演技の巧みさ。身体の置き方、視線の動かし方、まさに人間の“実存”というものを表現している。間違いなく彼らのキャリアの大きなジャンプアップ。かもめんたる、シソンヌというそびえ立つコントチャンピオン達の単独公演に肩を並べる傑作の誕生だ*1。以下ネタバレを含みますので、未見の方は5月に発売のDVDを観賞後にぜひ。

<僕はみなさんのちゃんとしてない所が好きなんです>

才能枯渇という苦悩から逃れるために全身整形によって別人として生き潜む伝説のミュージシャン、AV女優をこよなく愛する天才サイコハッカー、小学生の頃に自作した漫画のコンセプトカフェを開く男、コインランドリーの洗濯機に潜り込み心の汚れを落とそうとする警察官、勃起のメカニズムを電力に変換すること成功した電力会社・・・社会からはみ出した有象無象のアウトサイダー達の在り様が、ラストコント「anna」における山崎と島田という2人のラジオリスナーの恋物語に奉仕していく。伝説のミュージシャンも変態警察官も同じラジオ番組のリスナーで、島田の山崎へのラジオを通しての告白は天才ハッカーの電波ジャックによって邪魔され、島田はコンセプトカフェ店長の娘であるし、2人の恋のハイライトを照らす夜景は、虚しい男達の勃起が作り出したものであるのだ。その複雑に絡み合った構成に胸を打たれるのは、伏線回収の巧みさではなく、空気階段がこの歪な世界をまるごと描こうとしているからだ。アウトサイダー達の卑小な蠢きと慎ましくも美しいラブストーリーと同列に並び立って世界はできている。

汚れがどうたらこうたら言ってっけど、
お前が言ってるその不安と怒りとか悲しみとか
そういう汚れっつーのが
人間がみんな抱えて生きていくもんなんじゃねぇの?
汚れなの?ほんとにそれって

「コインランドリー」の劇中で下着泥棒に扮した鈴木もぐらが放つこの台詞が、空気階段の描くコントの核だろう。人間は愚かで醜く哀しい。それでも、そこから目を背けることなく、ダメなところをおもしろがって、そこに”愛おしさ“を見出す。そうすることで人を繋がっていく、恋に落ちていく。空気階段は、「恋することの尊さ」を訴え続けるコント師だ。恋をすれば、それまで薄暗かった人生が薔薇色に変わる。

君に彼氏がいたら悲しいけど
「君が好き」だという それだけで僕はうれしいのさ

君に好きな人がいたら悲しいけど
君を想うことがそれだけが僕のすべてなのさ


銀杏BOYZ夢で逢えたら

そして、たとえその恋が身を結ばなくとも、「恋をした」というその感触だけが、わたしたちを生かし続けるのだ、と。



<どうしようもなくやりきれないことをやり直すということ>

水川かたまりの公開プロポーズからの11ヶ月でのスピード離婚。それを笑い飛ばしてみせるOPコントに顕著なように、ラジオという媒体に文字通り生かされてきた鈴木もぐらと水川かたまり、もぐらと銀杏BOYZ峯田の関係性、住まいをAV撮影現場に提供したかたまり、極度に緊張すると勃起してしまうかたまりのエレクトすることへの偏狭的な関心などなど、『空気階段の踊り場』のリスナーが共有している空気階段の人生がこれでもかと物語に落とし込まれている。テレビドラマ作家である坂元裕二が舞台『またここか』で“物語を書く“という行為をこう表現している。

小説に書くのは二つのこと。本当はやっちゃいけないこと。もうひとつは、もう起こってしまった、どうしようもなくやりきれないことをやり直すってこと。そういうことを書く。そこに夢と思い出は閉じ込める。それがお話を作るってこと。


坂元裕二『またここか」(2018)

やりきれない気持ちを笑いに、物語に昇華させる。水川かたまりがコントを書き上げる筆致はまさにこれだろう。


『anna』という傑作公演において、たくさんの人の頭にハテナマークを浮かばせた「Q」というコント。

僕は君だよ
君は僕だよ

と七色のタイツを履いた何者かの指揮のもと、無数の自分自身に取り囲まれるという異様にドラッギーな作品だ。しかも彼らは、ラストの長編コント「anna」においても登場し、放課後の島田の告白を阻止してしまう。このQという存在を読み解くヒントは『空気階段の踊り場』#136のクラウド放送「青春時代の介入」にある。放送内容を要約してみよう。

もぐらが中学3年生の時のこと。突然クラスの1軍女子軍団に囲まれ「今日、翔くん(もぐら)に誰かが告白するって言ったら付き合うよね!?」と問い詰められる。もぐらが「はっ?どういうこと?」と尋ねると、「いや、だからぁ、ウチらの友達に翔くんのこと好きな人がいるんだけどぉ」とのこと。それが誰なのかいくら尋ねてみても、教えはてもらえない。もぐらは「うれしいけど、相手が誰なのかわからなくては、付き合うとは保証できない」と突っぱねる。その日はずっとドキドキして過ごすも誰も告白には来ることはなく、その後も音沙汰なく、もぐらの中学生活は終わっていったという

こんなシチュエーションに置かれても告白という体験をすることができなかった状況に、もぐらは「誰かに介入されていたんじゃないか?」と「誰かの手で自分の未来を書き変えられたのでは?」という感触を得る。もし、そこでもぐら彼女ができていたらGOING STEADY銀杏BOYZにはまることもなく、ギャンブルにもはまらず、芸人にすらなっていなかったかもしれない。いや、それどころか、この“介入”のせいで自分は30歳まで彼女もできず、借金も700万という人生になっているのではないか!つまり、Qというのはこの”介入“を具現化したものなのだ。そして、「anna」というコントは、過去のもぐらと同様に、介入によって為されなかった告白を、やりきれない過去をやり直すために誕生したのである。

放送を重ねるごとに”介入“という現象に取り憑かれていく2人は、「わたし介入されました」という体験談をリスナーに募っていくことになる。#142の本編で読まれたラジオネーム“なまず”の投稿が、介入者であるQのヴィジュアルイメージのソースとなったことは想像に難くない。

僕が3歳の頃
弟が生まれるのでおばあちゃんの家にひと月ほど預けられていたのですが
ある日僕がフラフラと外に出掛けて迷子になりました
帰れなくなっていた時
ある路地に入りました
そこに猫が1匹いたのですが
その猫が僕に向かって鳴いてきたのです
そうしたら他の猫たちも寄ってきて
周りを取り囲みました
ニャーニャーと鳴かれて、取り囲まれ
僕は泣き出しました
するとその時、ジャラジャラと鎖に首を繋がれた犬が来て
僕の後ろに立ちました
犬は鳴きませんでしたし、猫は鳴き止みませんでした
不思議な包囲網でした
何分くらい経ったかわかりませんが
猫が一斉に鳴き止み
犬が後ろを向いたら
その方向から大人がやってきました
知らないおばちゃんでしたが
その人が僕をおばあちゃんの家まで連れて行ってくれるという
不思議な体験をしたのです
もしその体験がなければ
今、僕は36歳無職童貞じゃなかったのかもしれません
友達もたくさんいて普通に就職して、結婚し、普通の人生を送っていたはずなのです
謎の存在に介入されたのではないかと思っています

この謎の体験談を元に創造されたのが介入者Qだ。そして、劇中における「僕は君だよ 君は僕だよ」という台詞にあるように、介入者というのは自分自身なのかもしれない。色んな世界線の自分、その後悔や希望。やり直したい過去、こうなってしまった現在、あったかもしれない未来・・・そんなあらゆるパラレルを物語に落とし込むことで、空気階段はあらゆる角度から人生そのものを肯定してみせるのだ。

いやー、まぁ、こんな人生もあるよね!

*1:今作ではじめてお笑い単独公演を観た、という方にはぜひかもめんたるとシソンヌの公演にも触れてみてほしい

藤岡拓太郎『大丈夫マン』

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そのほとんどが1ページで終わる藤岡拓太郎の漫画は、いきなり始まって、いきなり終わる。ここには“途中”という感覚がある。高級レストランにて指輪を忍ばせた寿司ネタでプロポーズする大将、家電売り場にInstagramを買い求めにやって来る夫婦、息子の運動会に参加するも借り物競争のモノが見つからず町中を走り回るおっさん、擬音だけで『桃太郎』を読み聞かせる父親、コンビニの店員にとつぜん誕生日を迎えたことを告げられる男・・・など描かれているのは1ページの中で巻き起こる少し特異な出来事なのだけど、ここにはたしかに”これまで“と”これから“があって、読み手は、このキャラクターたちの人生を想像してしまう。それを端的に表現しているのが「キャベツを買った人」という一編だろう。


コインパーキングに設置された自動販売機前の通りを捉えた定点カメラの4コマに、1コマだけキャベツを抱き抱えた男が映り込むというミニマルな作品。しかし、この男は帰ってお好み焼きでも作るのかな、エコバッグは忘れたのかな、それともできる限りは手で持ちたいタイプなんだろうか、なんでこんなにも凛とした顔をしているのだろう・・・というように、たった1コマの絵にこれまでとこれからのドラマを想像してしまう。たった1ページの漫画の登場人物に想いを馳せること。その営みに”生“の実感が宿る。そして、藤岡漫画のキャラクター達は我々よりも先にそれを実践している。

みんなも頭の中でこういうこと考えたりしてるんかなぁ


「18才」

すっかり会わなくなっちまったあの友だちとか
つかの間すれ違っただけのあの人
死んでいても生きていてもぞっとしまう


「こんにちわ」

この「つかの間すれ違っただけのあの人」に想いを馳せることが、今作の根幹に流れるフィーリングだ。道ですれ違った体格のいい少年に「相撲やればいいのに」と声をかけるおっさん、通りがかりのおっさんとおもしろそうだから服を交換してみる男、町でしんどそうな人を見かけたら「座れ」と言って休ませてあげる椅子を持ち歩く男、公園のベンチで相席した主婦に「大きくなったら何になりたいの」と問いかけるおっさん・・・など枚挙にいとまがない。そして、そのフィーリングはラストの「街で」という中編に収束されていく。スリムクラブが2010年の『M-1グランプリ』の決勝ラウンドで披露した1本の漫才にオマージュを捧げたそれは、“街で1回見たことがある人”の葬式に駆けつける男の話だ。葬式会場の受け付けで「普通ですね、街で、1回、見た人の葬式に出席するのは非常識ですよ」と嗜められる。しかし、彼は何もまちがってないのだ。

この歌の良さがいつかきっと君にもわかってもらえるさ
いつかそんな日になる
ぼくら何もまちがってない
もうすぐなんだ
気の合う友達ってたくさんいるのさ
今は気づかないだけ
街ですれちがっただけで
わかるようになるよ


RCサクセション「わかってもらえるさ」

この広い世界には、実は気の合う友達ってたくさんいる。だからこそ、藤岡拓太郎の漫画のキャラクターたちは、それが一見無謀で奇特に思われようとも、街行く人々に果敢に話しかけるのだ。この懸命さが、藤岡ギャグ漫画の隠し味かもしれない。




『大丈夫マン』収録作品で1番のお気に入りはこの「夏祭り」という作品。例年になく人々で賑わう夏祭り。じゃがバター、クレープ、焼きそば・・・といった出店の中に、「腹筋」と書かれた屋台。そこでは男がストイックに腹筋運動に励んでいる。そんな奇妙なシーンを目撃にした1組のカップルが、「ははは」と何事もないかのように笑い飛ばし、「結婚しよっか」「うん」と大きな選択を決断してみせる。腹筋運動とプロポーズにはなんの脈絡もないのだけども、たしかに2人の結婚は”腹筋“に導かれている。それがこの世界の仕組みなのだ。この世界には、あらゆる人生がばらばらに散らばっていて、それらが人知れずに意味もなく折り重なっていく。重なって繋がって続いていく。人生は、命は続いていくというこの”円環“の感触は「夏のこども」に登場する

母さんは まだ死んでいる
わたしは もう生きている

というフレーズが的確に捉えている。そして、今作は谷川俊太郎「朝のリレー」を音読するところが始まっているということ。

カムカッチャの若者が
きりんの夢を見ている時
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマのしょうねんは
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰がしっかり受け止めた証拠なのだ


谷川俊太郎「朝のリレー」

ぼくらは朝をリレーして、地球を交替で守っている。あなたの不安や心配ごとも、バーっと宙に向かって吐き出せば、誰かがきっと受け止めてくれる。だから、大丈夫、大丈夫、大丈夫。藤岡拓太郎はそんなふうにぼくらに、話しかけとんます。

坂元裕二『花束みたいな恋をした』

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<A面>

絹(有村架純)が「この人はわたしに話しかけてくれている」と心酔するブログ『恋愛生存率』ではいつも同じテーマが綴られていた。それは、”はじまりはおわりのはじまり“。

出会いは常に別れを内在し、恋愛はパーティーのようにいつしか終わる。だから恋する者たちは好きなものを持ち寄ってテーブルを挟み、お喋りをし、その切なさを楽しむしかないのだ

ある日、ブログの筆者である”めい“は恋に落ち、「数パーセントに満たない生存率の恋愛をわたしは生き残る」と綴ったその一年後に自ら命を絶ってしまう。

めいさんが死んだ
恋の死を見たんだろうか。その死に殉ずることにしたんだろうか。どれも想像に過ぎないし、そこに自分の恋愛を重ねるつもりはない

としながらも、絹の頭には「どんな恋でも、いつしか必ず終わりを迎える」という諦念が刷り込まれている。麦(菅田将暉)が何気なく言ってのける「僕の人生の目標は絹ちゃんとの現状維持です」が、どれほど困難なことかにも気付いてしまっている(でも、決してそれを口にはしない)。離れがたい分身のような存在に、どんなに運命的に出会おうとも、「王子様とお姫様はその後ずっと幸せに暮らしました、めでたしめでたし」で済ませられるほど、恋がイージーではないことに絹のみならず多くの人が気づいてしまっている。そんな現代において、ラブストーリーはその先を描かなくてはいけない。社会があって、生活があって、お金が必要で、そして何より緩やかに冷めていく恋の結末を。

恋愛って生ものだからさ、賞味期限があるんだよ

ずっと同じだけ好きでいるなんて無理だよ

というように、『花束みたいな恋をした』は、資本主義社会や就職活動で生き抜くことの厳しさを織り込みながらも、あくまでラブストーリーとして、王子様とお姫様の恋の”めでたしめでたし“のその先を描こうとしている。恋に賞味期限はあるのか?という難題に立ち向かうのだ。

国立科学博物館でミイラ展がはじまる。
そうは見えないかもしれないけど、これ、内心歓喜し、むせび泣いているわたし

今はミイラ展のことだけを考えよう。これ以上何も望むまい。

ミイラがかくも絹の心を掴んでいるのは何故だろう。ミイラ、腐敗せずに原形を残した状態の死体。死してなおもこの世に形を残し続けるというそのあり様に、絹は惹かれているのだ。そう、めいが『恋愛生存率』で書くテーマがいつも同じだったように、坂元裕二もまた同一のテーマを物語に内在させている。それは最初のヒット作にも刻まれまれている。*1

恋愛はさ 参加することに意義があるんだから
たとえダメだったとしてもさ
人が人を好きになった瞬間って、ずーっとずーっと残っていくものだよ
それだけが生きてく勇気になる
暗い夜道を照らす懐中電灯になるんだよ


東京ラブストーリー』(1991)

ずっとね 思ってたんです
いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまうって
私 私たち 今 かけがえのない時間の中にいる
二度と戻らない時間の中にいるって
それぐらい眩しかった
こんなこともうないから 後から思い出して
眩しくて眩しくて泣いてしまうんだろうなぁって

 
いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016)

私の好きはその辺にゴロゴロしてるっていうか
ふふっ、寝っ転がってて・・・
で、ちょっと ちょっとだけがんばる時ってあるでしょ?
住所を真っ直ぐ書かなきゃいけない時とか
エスカレーターの下りに乗る時とか
バスを乗り間違えないようにする時とか
白い服着てナポリタン食べる時
そういうね 時にね その人が いつもちょっといるの
いて エプロンかけてくれるの
そしたらちょっと頑張れる

 
『カルテット』(2017)

誰かに向けた”想い“は、たとえその恋が報われなかろうと、終わってしまったとしても、決して消えることはない。まるでミイラのように、“腐ることなく”この世に留まり続け、その後の人生を照らす”光“となるのだ。それが、「恋に賞味期限はあるのか?」という問いへの坂元裕二の回答だ。今作における白眉はまぎれもなく、“光”そのものを体現したような清原果耶と細田佳央太という若きカップル、そして見つめる終わりゆく絹と麦。恋の美しさと切なさを描き切ったファミレスでのシークエンスだろう。


時を経て、二人は街で再会する。言葉を交わすことはないが、互いの行末とこれまでの健闘を讃えるかのように(「我々のこれまでの道のりは美しかった!」)、視線を合わすことなく手を振り、次の恋へと歩き出していく。そして、家路についた二人のモノローグ。

今日、元カレにばったり会った。多分あれはわたしがあげたイヤホン。二人でSMAPの「たいせつ」聴いたな。SMAPが解散しなかったら、わたしたちも別れてなかったかな。なんて馬鹿なことを思った。

今日、元カノにばったり会った。きのこ帝国が活動休止したこと、『粋な夜電波』が終わったこと、今村夏子が芥川賞を取ったこと、どう思ったかな。多摩川の氾濫の時、ニュース見て何思ったかな。

彼の部屋にはじめて行った時、髪の毛乾かしてもらったな。雨降ってたな。焼きおにぎり美味しかったな。近所のあのパン屋のご夫婦、今頃どうしてるだろ。トイレットペーパー買えたかな。

よく二人で行ったパン屋があった気がする。あの焼きそばパンまた食べたいな。

二人の恋は終わった。しかし、その形跡は残り続け、一人で過ごす夜をこんな風にして、そっと慰める。過去から訪れる愛情を、手紙のように受け取りながら、わたしたちは前に進んでいく。そして、驚くべきことに、そんな恋の跡がGoogleマップに記録されていた!という完璧な結末。「人が人を好きになった瞬間って、ずーっとずーっと残っていくものだよ」という高らかな宣言から30年、坂元裕二をそれを軽やかに可視化してみせたのだ。


かつて、まるで一つの生き物のように分かり合えた人がいた。決して消えることのないそんな記憶こそが、終わってしまった恋からの、手向けの花束なのだ。



<B面>

映画は、イヤホンを一本ずつ分け合うカップルへの文句から始まる。

音楽ってね、モノラルじゃないの。ステレオなんだよ。イヤホンで聴いたらLとRで鳴ってる音は違う。Lでギターが鳴ってる時、Rはドラムだけ聞こえてる。片方ずつで聴いたらそれはもう別の曲なんだよ。

ベーコンレタスサンド、ベーコンとレタスで分けて食べました。それベーコンレタスサンド?かつ丼を二人で分けて、一人がかつを全部食べました。もう一人が食べたものは?

同じ曲聴いてるつもりだけで、違うの、彼女と彼は今違う音楽を聴いてるの。

離れた場所から文句をつけている二人にとって、恋愛というのは、“同じであること”のようだ。すべてを分かり合える、互いを同一視してしまうような存在と巡り合うことは、確かに恋愛の一つの理想の形である。もちろん、自分に足りないものを相手に求める恋愛も正しく、色んな恋愛の形があるのは当然なのだが、この映画の二人においては“同じであること”が、最高の恋として描かれていく。ジャックパーセル、絡まってしまうイヤホン、栞代わりの映画の半券、チケットを取ったのに行けなかったライブ、そして、その極め付けとしての、ほぼうちの本棚じゃん。”同じであること“は互いに愛するポップカルチャーを確認し合うことで高まっていく。押井守天竺鼠cero穂村弘長嶋有、『粋な夜電波』、『宝石の国』、『ゴールデンカムイ』etc・・・一方で二人の恋が崩れていく様子もまた、ポップルチャーとの距離を通して描かれていく。再演を共に待ち侘びていた『わたしの星』を一人で鑑賞し、楽しみにしていた『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』を一人でプレイし、薦めた『茄子の輝き』は読まれることがなく、『ストレンジャー・シングス』や『マスター・オブ・ゼロ』を画面で共有することなく、一人パソコンで鑑賞するようになる。そんな風にして少しずつ“同じ“でなくなっていく二人。一緒に食べるはずだった「さわやか」のハンバーグを一人食べ、先輩の死を”同じように“悲しめなくなることで、二人の別れは決定的なものとなる。


ここには同一視する恋愛の脆さ、社会に適合していくことによるカルチャーとの別離の様子がリアルに刻まれている。「劇中に登場するカルチャーは自分の趣味ではない」という旨の発言が坂元裕二のインタビューに登場することもあり、劇中におけるポップカルチャーの羅列はリアリティを召喚するための単なる装置で、どこか冷ややかな視点すらあるのかな(たしかに二人の自意識のありようは身に覚えがありすぎる故に顔から火が出るようだ)、とも思ってしまうのだけど、それでもやっぱり、ここには愛がある。そう信じたい。GReeeeNSEKAI NO OWARIONE OK ROCKといった大きな音で流れるヒットソングに馴染めず、社会の片隅でひそやかに、小さな物語を愛し、二人きりのカラオケボックスではしゃぐ若者の懸命さは、まさしく坂元裕二の作品の登場人物のそれである。そんなどこか生き辛さを抱えた彼らを生かし続け、自らの血肉であるかのように交換し合うポップカルチャー。それら全般への坂元裕二の少しねじ曲がった愛情と感謝が、この映画には横たわっているんじゃないかなぁ。

*1:我ながら何回目の引用か、と辟易するのだけど、めいに倣うように語りたいテーマを何度でも語ろう

『キングオブコント2020』空気階段の描く“恋と退屈”

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キングオブコント2020』を終え、そのままTBSラジオ空気階段の踊り場』の収録に臨んだ空気階段の2人。「いつもひとりぼっちだけども、ラジオを聞いて孤独を慰めた」というリスナーからの感謝のメールに鈴木もぐらが感極まり、お得意の口上から銀杏BOYZ「エンジェルベイビー」を流す。

どうして僕 いつもひとりなんだろ
ここじゃないどこかへ行きたかった

Hello my friend
君と僕は一生の友達さ

そして、リスナー達に「お前たちひとりじゃないぜぇ」とメッセージを送る鈴木もぐら。人間の愚かさ醜さを笑い飛ばす空気階段、そのルーザー達に向ける眼差しの真摯さにいつも胸を撃たれてしまう。


彼らが『キングオブコント2020』で披露した2本目のコントの登場人物は夜間の定時制の生徒たちだった。昼は働きながら学び、歩けば職務質問されるという彼らの人生は決してイージーなものではないのだろう。そんな社会との風通しの悪さを体現するかのように、ハルト(鈴木もぐら)の放つ言語はまるでノイズのようで、ほとんど聞き取ることができない。しかし、アオイ(水川かたまり)はそのノイズのような響きをはっきりと聞き取ってしまう*1。それが“当然のこと”のように劇中で処理されてしまう違和感が笑いを生み出すという、ねじれた構造のコントなのだ。しかも、それらは会話ではなく手紙で交わされるというのだから、一筋縄ではない。空気階段はズレから生じる摩擦こそがエモーションを巻き起こすということを知っている。そして、それは社会から少しだけズレてしまったコント内のキャラクターへの祝福でもある。しかし、伝えたいメッセージは至極ストレートだ。水川かたまりがコントを終えて言ったように、“恋の尊さ”である。

忙しくて大変だけど、今は毎日が楽しい
それは恋をしているから

「時に人生は厳しいけど 恋をしている時は忘れられる」と書いたのは、稀代のドラマ作家坂元裕二だが、アオイとハルトの気持ちが通じ合った一瞬は、永遠の記憶として保存されるだろう。これはニッポンの社長が『キングオブコント2020』で披露したコントでも描かれていたことだが、「出会えたことがすべて」なのである。ここで流れるのは、Every Little Thingの「出会った頃のように」であるけれども、その歌い出しのリリックが「My Love is forever」であることからも、彼らがあの場面で本当に流したかった曲が銀杏BOYZ「恋は永遠」であったことは想像に難くない。

Oh My Baby
やりきれなくても
君が笑うから
いつもの部屋で
いつもみたいに
君が笑うから
やさしくって やさしくって


銀杏BOYZ「恋は永遠」

いつだってわたしたちが“寂しい”のは、誰かと出会うためなのだ。


恋の尊さを体現するのに値する水川かたまりの女装の美しさ、そして、アオイとハルト*2の何気ない所作や表情のかわいげ(演技の細かさ)。まさに決勝の舞台で披露するにふさわしいパーフェクトな1本。しかし、1本目に披露されたコントもまた同等に素晴らしかった。死んだおばあちゃんに「ありがとう」と伝えたくてイタコの元を訪れる(今まで出会えた全ての人々に もう一度いつか会えたらどんなに素敵なことだろう©️銀杏BOYZ漂流教室」)、という導入でまずもって泣けてしまうのだけども、なんと言っても全編に迸る空気階段のラジオ愛だろう。ラジオの電波は破産寸前(マジで破産する5秒前)というような追い込まれた人間たちにも等しく降り注ぐ。さらに、ラジオと霊の波長は非常によく似ているのだという。つまり、ラジオは現世/死後(もしくはダンプカー/ヤリイカ)というような分断された世界を結びつけてしまうのものなのだ。それを示すように10m4cmの長い“としやんストラップ”がバラバラのはずの世界をいとも簡単に繋げてみせる。ラジオというのは時空を超えて届けることのできるメディアであるというの空気階段なりの証明。そして、その電波は等しく降り注ぐがゆえにランダムで、思ってもみない相手(隣に住んでいたトメさん)に届いてしまうものでもあるのだ。


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*1:それはまるで銀杏BOYZのライブのよう

*2:アオイとハルトでアオハル”青春”