青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『大豆田とわ子と三人の元夫』1話

<A面>

オレンジ色の上下のジャージを身に纏った大豆田とわ子(松たか子)が、オレンジ色の布で囲われた公園を歩いている。このはじまりが象徴的なのだけど、この『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマにはあまりにも“オレンジ”に満ちているのだ。大豆田とわ子が入店するお洒落なパン屋の軒先、大豆田とわ子の住む部屋のカーテンとソファーと照明、大豆田とわ子が拾うパスタ、大豆田とわ子が出席した従兄弟の結婚式会場の照明、大豆田とわ子の娘が飲むオレンジジュース、大豆田とわ子の3番目の夫の髪色、2番目の夫の着るアウターの切り返し、1番目の夫の名前の響き(ハッサク*1)、大豆田とわ子の履くサンダル、大豆田とわ子の持つバッグ、大豆田とわ子の同僚の洋服、シロクマハウジングのオフィスの証明、ミニチュアの家の屋根、大豆田とわ子のiPhoneの背景トーン、大豆田とわ子が焦がれるカレーパン、大豆田とわ子の履く靴、大豆田とわ子の友人が持参した柿ピーの袋、通行人の履くスカート、通りがかる船の屋根、大豆田とわ子の娘が勉強するドリルの表紙、食器洗濯機の留め具、大豆田とわ子が誘われた映画『最高な人生のはじまりを見つける幸せなパン』の題字、大豆田とわ子の幼少期の思い出のトーン、徹夜明けの紙コップコーヒーのカバー、大豆田とわ子の同僚の洋服②、大豆田とわ子が倒して直す自転車、大豆田とわ子が穴にはまった工事現場のガードレール、大豆田とわ子が振る舞われた柳川風うどん、街灯、大豆田とわ子と元夫達が漕ぐブランコのレール・・・画面にオレンジのトーンが登場しないシークエンスは存在しないと言っていいだろう。


さらに、大豆田とわ子が待望のバスタイムに機嫌を良くして歌われる「ロマンティックあげるよ」である。松たか子のそのあまりにも卓越した歌声に耳を奪われてしまうのはさておき、「ロマンティックあげるよ」をエンディングテーマに、続けて歌われる「魔訶不思議アドベンチャー」をオープニングテーマとする『ドラゴンボール』の物語を駆動させる球体の色は、そして主人公である孫悟空の道着の色は何色だったか。身に纏うものや部屋のインテリアから、大豆田とわ子が“オレンジ”という色を好んでいることは推測されるが、その他のオレンジはランダムに規則性なく現れる。つまり、オレンジはそこかしらに点在していて、大豆田とわ子を誘惑するのだ。それはつまり、大豆田とわ子が「一つの場所に留まることができない」ということのメタファーだ。

お洒落なパン屋に(オレンジの)ジャージで入れる大豆田とわ子
商店街だって全然(オレンジの)ジャージで歩ける
なんだったら電車だって乗れる、新幹線だって

大豆田とわ子は“オレンジ”のジャージを身に纏い、どこにでも行けてしまうのだから。留まることができない大豆田とわ子は離婚を3回繰り返す。四十九日が過ぎた母親の遺骨をお墓に納めることができないし、「出港!」と冒険の旅に飛び出す船長に心惹かれしまう。


劇中を支えるのはこの大豆田とわ子の“留まれなさ”、そして、”溢れ出てしまう“というフィーリングだ。取り除きたい靴の中に入った小石、外れてしまう網戸、棚から溢れ落ちるパスタ、歯に挟まった後出てくる“味ゾンビ”としての胡麻、中身が出ちゃう餃子、飛び散る醤油の小袋、溢れるアイスカフェオレ、そして溢れて出したそれを拭く三人の元夫達。大豆とわ子は三人の元夫から逃れるように隠れた台所の引き戸からも、どうにも留まることができず、飛び出してしまう。そして、第一話は大豆田とわ子を縛りつけていた“パスワード”は解除されることで終わりを告げる。


この“留まれなさ”溢れでる”という感覚がもたらすのは、カテゴライズされることへの拒絶だ。3回の離婚歴を持つ人に出会った時、我々が抱く印象は「結婚式のスピーチは頼めない」というのとそう大差はないだろう。もしくは魔性の女?自暴自棄な人?いやしかし、我々が目撃した大豆田とわ子は、そんなありきたりな枠には当てはまらない多様な魅力を持った人間だ。留まることはできないが、幸せになることもまた諦めない。ダイバーシティという言葉が浸透したこの現代における新しい幸せのあり方*2を、大豆田とわ子が提示してくれることを望んで止まない。

まぁ色々あるさ
色々だよ
どっちか全部ってことはないでしょ
楽しいまま不安 不安なまま楽しい

<B面>

結婚式の引き出物のバームクーヘンを手掴みで歩きながら頬張るだとか、お風呂に入れてない自分の体臭を気にする仕草だとか、英字新聞がプリントされたシャツばかり着てしまうだとか、その英文を読み上げてしまうだとか、人の家のお風呂で熱唱するだとか、鼻を摘み合うだとか、「グンモー」という挨拶だとか、布団が吹っ飛んだという駄洒落で繋がりを強くする会話だとか、「ねっ?」という呼びかけだとか、三者三様のストローの咥え方だとか、喪服を着た大人がブランコを漕いでみたりだとか。こういった小さな営みが紡ぎ出す豊かなイメージの積み重ねだけで、人間の愚かさと愛おしさを描いてしまうという筆致は健在。もう抜群に面白いのだが、これまでの坂元作品に慣れた人ほど今作には面食らってしまうではないだろうか。まるで坂元裕二による自己否定のようなのだ。

離婚っていうのは自分の人生に嘘をつかなかったって証拠だよ
100円拾って使うのは犯罪だけど
100回離婚するのは犯罪じゃないからね

といういかにもな坂元節の名言が飛び出せば、「さすがいいワイン飲むと、いい事いうね」と茶化されるし、自身を雑談マニアと称し、その雑談力こそが作品のチャームであったはずであるのに、「雑談っていります?」と中村慎森(岡田将生)に言わせてしまう。『最高の離婚』(2013)において、物語を揺さぶり続けた“離婚”という選択をいとも容易く3度も繰り返してみせる大豆田とわ子。『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2015)なんて台詞は死んでも吐かなそうな大豆田とわ子。

人を好きになった瞬間って、ずーっとずーっと残っていくものだよ

というのは、『東京ラブストーリー』(1991)に登場して以降、繰り返し語り直されるテーマなのだけども、今作においてそれは早くも登場する。

お湯が水になり、やがて氷になったとしても、その氷は鍋で沸かしたらもう一度お湯になるよね?

お湯の水が氷になったとしても、必ずしもその氷はお湯に戻らないこともないと、僕は思う

お湯が夫婦だとしよう
その、そのお湯の熱もやがて冷めて、氷になる時
水が氷になる時
その氷はお湯だった時のことを決して忘れはしないだろう?

まるで、かまいたちの漫才のように「もう1回言ってもらえます?」「どういうことですか?」と聞き返され、3度も繰り返されギャグのように処理されてしまう。


そして、今作に漂うリッチでオシャレな質感は何事か。

洋貴「服買ったほうがいいんじゃないですか?」
双葉「え?私、なんか変な...変な服着てますか?」
洋貴「てゆうか」
双葉「変ですか?」
洋貴「今日東京行ったんですけど、結構みんな“オシャレ”でしたよ」
   (互いを指差して)こういう感じの人達あんまいなかったですよ」
双葉「あぁ...私は、まぁこういうので充分です」
洋貴「僕もまぁこういうので充分ですけど」


それでも、生きてゆく』(2011)

音「(OLの彼女は)どんな服着てる?」
練「服?えっ、服はぁ....」
音「(自分の服と靴を指して)こういうのとはちょっと違うでしょ?」
練「もうちょっとオシャレっていうか...」


いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2015)


といったように、2010年以降の坂元作品を雑にまとめてしまえば、“オシャレじゃない人々”を描いていたように思う。社会に搾取され、生きづらさを湛えた人々。しかし、今作の登場人物は建設会社の社長である大豆田とわ子をはじめとして、レストランオーナー、カメラマン、弁護士といったお金に余裕があり、奥渋谷といった東京の中でも感度(と家賃)の高い街に住む人々。センス溢れる服やインテリアに囲まれて暮らしている。坂元裕二のキャリアの出発点であるトレンディドラマ時代へ行き戻るかのようだが、“生きづらさ”がデフォルトと化した現代において、エンターテイメントが提示すべきものは憧れや豊かさであるのかもしれない。


何より気にかかるのはその新たな話法だろう。映画『花束みたいな恋をした』(2021)でも顕著であったモノローグの多用は健在。さらに今作においては一人称と三人称が溶け合ったような視点のナレーション。否が応でも耳につく伊藤沙莉のナレーションが状況や心情を矢継ぎ早に説明していく。

これは歩いている大豆田とわ子
靴の中に小さい石が入ってしまった
靴の中に入った小さい石を
靴を脱がずに取り出そうと試みている大豆田とわ子

説明台詞というものを極力排除することに注力していたこれまでの坂元裕二のペンであれば、松たか子の独特な足の運動とその表情でもって、そこで起きている状況を視聴者に理解させ、さらには大豆田とわ子のどこかズボラで、周りからズレているという“人となり”までも察してください、といったような作りになっていたはず。しかし、このナレーションは大豆田とわ子についてのみ語るのだ。であるから、大豆田とわ子のため体勢を変えずに5時間じっと座っていた田中八作(松田龍平)の優しさは、さりげないストレッチ運動で示され、説明されることはない。


「元夫の珈琲に塩を入れる大豆田とわ子、船長さんとお近づきになる大豆田とわ子、元夫たちがブロッコリーで戦うのを見守る大豆田とわ子、元夫と朝を迎える大豆田とわ子・・・」というように今話のハイライトを先見せするというのに至ってはもはやご乱心としか思えない。いや、こんな風にして、作風の型にはめられることを拒んでいるのかもしれない。坂元裕二もまた、これまでの型に留まらないことを選んだのだ。網戸を外して放り投げる大豆田とわ子のように。もしくは、ボーリングのピンを少しだけ倒して見せる大豆田とわ子のように。

*1:はっさくと言えば、『最高の離婚』『問題のあるレストラン』に出てくる猫マチルダとはっさくである

*2:一人でも大丈夫だけど、誰かに大事にされたい