青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

空気階段『anna』


普通じゃない人々への讃歌とラジオ、そしてお笑いのある世界への愛。コロナウィルスの影響で2回の延期を経て、ようやくの開演となった第4回単独公演『anna』は、彼らの代表番組『空気階段の踊り場』(TBSラジオ)がそのまま具現化されたようなコントに満ち溢れていた。そして、空気階段の2人の演技の巧みさ。身体の置き方、視線の動かし方、まさに人間の“実存”というものを表現している。間違いなく彼らのキャリアの大きなジャンプアップ。かもめんたる、シソンヌというそびえ立つコントチャンピオン達の単独公演に肩を並べる傑作の誕生だ*1。以下ネタバレを含みますので、未見の方は5月に発売のDVDを観賞後にぜひ。

<僕はみなさんのちゃんとしてない所が好きなんです>

才能枯渇という苦悩から逃れるために全身整形によって別人として生き潜む伝説のミュージシャン、AV女優をこよなく愛する天才サイコハッカー、小学生の頃に自作した漫画のコンセプトカフェを開く男、コインランドリーの洗濯機に潜り込み心の汚れを落とそうとする警察官、勃起のメカニズムを電力に変換すること成功した電力会社・・・社会からはみ出した有象無象のアウトサイダー達の在り様が、ラストコント「anna」における山崎と島田という2人のラジオリスナーの恋物語に奉仕していく。伝説のミュージシャンも変態警察官も同じラジオ番組のリスナーで、島田の山崎へのラジオを通しての告白は天才ハッカーの電波ジャックによって邪魔され、島田はコンセプトカフェ店長の娘であるし、2人の恋のハイライトを照らす夜景は、虚しい男達の勃起が作り出したものであるのだ。その複雑に絡み合った構成に胸を打たれるのは、伏線回収の巧みさではなく、空気階段がこの歪な世界をまるごと描こうとしているからだ。アウトサイダー達の卑小な蠢きと慎ましくも美しいラブストーリーと同列に並び立って世界はできている。

汚れがどうたらこうたら言ってっけど、
お前が言ってるその不安と怒りとか悲しみとか
そういう汚れっつーのが
人間がみんな抱えて生きていくもんなんじゃねぇの?
汚れなの?ほんとにそれって

「コインランドリー」の劇中で下着泥棒に扮した鈴木もぐらが放つこの台詞が、空気階段の描くコントの核だろう。人間は愚かで醜く哀しい。それでも、そこから目を背けることなく、ダメなところをおもしろがって、そこに”愛おしさ“を見出す。そうすることで人を繋がっていく、恋に落ちていく。空気階段は、「恋することの尊さ」を訴え続けるコント師だ。恋をすれば、それまで薄暗かった人生が薔薇色に変わる。

君に彼氏がいたら悲しいけど
「君が好き」だという それだけで僕はうれしいのさ

君に好きな人がいたら悲しいけど
君を想うことがそれだけが僕のすべてなのさ


銀杏BOYZ夢で逢えたら

そして、たとえその恋が身を結ばなくとも、「恋をした」というその感触だけが、わたしたちを生かし続けるのだ、と。



<どうしようもなくやりきれないことをやり直すということ>

水川かたまりの公開プロポーズからの11ヶ月でのスピード離婚。それを笑い飛ばしてみせるOPコントに顕著なように、ラジオという媒体に文字通り生かされてきた鈴木もぐらと水川かたまり、もぐらと銀杏BOYZ峯田の関係性、住まいをAV撮影現場に提供したかたまり、極度に緊張すると勃起してしまうかたまりのエレクトすることへの偏狭的な関心などなど、『空気階段の踊り場』のリスナーが共有している空気階段の人生がこれでもかと物語に落とし込まれている。テレビドラマ作家である坂元裕二が舞台『またここか』で“物語を書く“という行為をこう表現している。

小説に書くのは二つのこと。本当はやっちゃいけないこと。もうひとつは、もう起こってしまった、どうしようもなくやりきれないことをやり直すってこと。そういうことを書く。そこに夢と思い出は閉じ込める。それがお話を作るってこと。


坂元裕二『またここか」(2018)

やりきれない気持ちを笑いに、物語に昇華させる。水川かたまりがコントを書き上げる筆致はまさにこれだろう。


『anna』という傑作公演において、たくさんの人の頭にハテナマークを浮かばせた「Q」というコント。

僕は君だよ
君は僕だよ

と七色のタイツを履いた何者かの指揮のもと、無数の自分自身に取り囲まれるという異様にドラッギーな作品だ。しかも彼らは、ラストの長編コント「anna」においても登場し、放課後の島田の告白を阻止してしまう。このQという存在を読み解くヒントは『空気階段の踊り場』#136のクラウド放送「青春時代の介入」にある。放送内容を要約してみよう。

もぐらが中学3年生の時のこと。突然クラスの1軍女子軍団に囲まれ「今日、翔くん(もぐら)に誰かが告白するって言ったら付き合うよね!?」と問い詰められる。もぐらが「はっ?どういうこと?」と尋ねると、「いや、だからぁ、ウチらの友達に翔くんのこと好きな人がいるんだけどぉ」とのこと。それが誰なのかいくら尋ねてみても、教えはてもらえない。もぐらは「うれしいけど、相手が誰なのかわからなくては、付き合うとは保証できない」と突っぱねる。その日はずっとドキドキして過ごすも誰も告白には来ることはなく、その後も音沙汰なく、もぐらの中学生活は終わっていったという

こんなシチュエーションに置かれても告白という体験をすることができなかった状況に、もぐらは「誰かに介入されていたんじゃないか?」と「誰かの手で自分の未来を書き変えられたのでは?」という感触を得る。もし、そこでもぐら彼女ができていたらGOING STEADY銀杏BOYZにはまることもなく、ギャンブルにもはまらず、芸人にすらなっていなかったかもしれない。いや、それどころか、この“介入”のせいで自分は30歳まで彼女もできず、借金も700万という人生になっているのではないか!つまり、Qというのはこの”介入“を具現化したものなのだ。そして、「anna」というコントは、過去のもぐらと同様に、介入によって為されなかった告白を、やりきれない過去をやり直すために誕生したのである。

放送を重ねるごとに”介入“という現象に取り憑かれていく2人は、「わたし介入されました」という体験談をリスナーに募っていくことになる。#142の本編で読まれたラジオネーム“なまず”の投稿が、介入者であるQのヴィジュアルイメージのソースとなったことは想像に難くない。

僕が3歳の頃
弟が生まれるのでおばあちゃんの家にひと月ほど預けられていたのですが
ある日僕がフラフラと外に出掛けて迷子になりました
帰れなくなっていた時
ある路地に入りました
そこに猫が1匹いたのですが
その猫が僕に向かって鳴いてきたのです
そうしたら他の猫たちも寄ってきて
周りを取り囲みました
ニャーニャーと鳴かれて、取り囲まれ
僕は泣き出しました
するとその時、ジャラジャラと鎖に首を繋がれた犬が来て
僕の後ろに立ちました
犬は鳴きませんでしたし、猫は鳴き止みませんでした
不思議な包囲網でした
何分くらい経ったかわかりませんが
猫が一斉に鳴き止み
犬が後ろを向いたら
その方向から大人がやってきました
知らないおばちゃんでしたが
その人が僕をおばあちゃんの家まで連れて行ってくれるという
不思議な体験をしたのです
もしその体験がなければ
今、僕は36歳無職童貞じゃなかったのかもしれません
友達もたくさんいて普通に就職して、結婚し、普通の人生を送っていたはずなのです
謎の存在に介入されたのではないかと思っています

この謎の体験談を元に創造されたのが介入者Qだ。そして、劇中における「僕は君だよ 君は僕だよ」という台詞にあるように、介入者というのは自分自身なのかもしれない。色んな世界線の自分、その後悔や希望。やり直したい過去、こうなってしまった現在、あったかもしれない未来・・・そんなあらゆるパラレルを物語に落とし込むことで、空気階段はあらゆる角度から人生そのものを肯定してみせるのだ。

いやー、まぁ、こんな人生もあるよね!

*1:今作ではじめてお笑い単独公演を観た、という方にはぜひかもめんたるとシソンヌの公演にも触れてみてほしい