青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

E・L・カニグズバーグという児童文学作家

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E・L・カニグズバーグという児童文学作家*1に夢中だ。『クローディアの秘密』『魔女ジェニファとわたし』『ベーグル・チームの作戦』『ティーパーティーの謎』・・・・どの作品を読んでも夢のように素晴らしい。

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

魔女ジェニファとわたし (岩波少年文庫)

魔女ジェニファとわたし (岩波少年文庫)

ベーグル・チームの作戦 (岩波少年文庫)

ベーグル・チームの作戦 (岩波少年文庫)

ティーパーティーの謎 (岩波少年文庫 (051))

ティーパーティーの謎 (岩波少年文庫 (051))

これから折に触れて読み返すであろうという確信でいっぱいだ。カニグズバーグの筆致の秀逸さを端的に伝えるため、ちょっとばかりの引用を許して欲しい。

むかし式の家出なんか、あたしにはぜったいできっこないわ、とクローディアは思っていました。かっとなったあまりに、リュック一つしょってとびだすことです。クローディアは不愉快なことがすきではありません。遠足さえも、虫がいっぱいいたり、カップケーキのお砂糖が太陽でとけたりして、だらしない、不便な感じです。そこでクローディアは、あたしの家出は、ただあるところから逃げ出すのではなく、あるところへ逃げこむのにするわ、と決めました。どこか大きな場所、気もちのよい場所、屋内、その上できれば美しい場所。クローディアがニューヨーク市メトロポリタン美術館に決めたのは、こういうわけでした。


『クローディアの秘密』より

図書館は、ひそひそ話をするところです。ジェニファは、まるでやかんからでる湯気みたいなシュシュという音で、すばらしく上手にひそひそ話ができました。


『魔女ジェニファとわたし』より

パーティーの土曜日は、目をさました瞬間から、ついてないことばかりでした。すべてのことが。第一に、その日はバタースコッチの日でした。バタースコッチの日は、わたしはいつも気分がよくないのです。町にはキャンディ工場がありました。そこでは、毎日、香りのちがうものをつくっていました。町じゅうが、においのついた空気をすっていたわけです。オレンジは気もちがいいし、チェリーやライムはほとんど気になりません。ハッカはおいしいくらいです。けれどバタースコッチのにおいは息苦しいのです。


『魔女ジェニファとわたし』より

クーキーはふり返ってにこっとした。クーキーが笑うと、顔に夜明けが来たみたいだ。はじめは細い光のすじだが、すぐに顔じゅうにその光が広がる。夜明けを告げるみたいだ。たしかに口は大きすぎるけど。
ぼくは袋に手をつっこんで持って来たものを出した。クーキーが手をのばし、その手の出し方を見て、ぼくは何気なく持ってきたものをするりとかの女の人さし指にはめた。
「ベーグルだよ。」ぼくはいった。「食べるものだよ。」
クーキーはぼくを見上げて、じっとぼくを見ながら人さし指に通したままのパンをかじりはじめた。


『ベーグル・チームの作戦』

美術館への家出、図書館でのひそひそ話、バタースコッチの日の息苦しさ、指に通されたままかじられるベーグル・・・あぁ!こんな描写が一ヵ所でもあれば、それはもう忘れ難い本になってしまうわけだが、おそるべきことにカニグズバーグの文学はこういった素晴らしさで満ちている。脳みそが痺れるようにウットリとしてしまうではないか。



カニグズバーグが書く物語の舞台はえてして都市の郊外に設定されている。そして、中流家庭で何不自由なく育つも、自意識を複雑にこんがらがらせてしまった子ども達が主人公だ。彼女たちについて、訳者の松永ふみ子はこう記している。

生まれた時から快適な環境に慣れ、それをあたりまえのこととして受けとっている、洗練された、都会的なちょっと気むずかしい子どもたちです。情報たっぷり、知識いっぱい、めったなことにはだまされません。<中略>人生についてまだ何も知らないのに、何でも知っていると思いこんでいる。

カニグズバーグの初期の3作の舞台は1960年代。しかし、そこに登場する子ども達は、現代の”わたしたち”にどうにもそっくりではないか。大人が子ども向けの作品に夢中になっていると、「それは子どもの為のものですよ」なんてしたり顔で指摘してくる人がいる。そういう人というのは”子ども”であった自分というのを、現在の自分とはまったく別人か何かのように考えているのかしら。児童文学に描かれている”切実さ”が、大人にとっては「取るに足らないこと」だなんて思うのは大間違いなのだ。

どうしておとなは自分の子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解出来なくなってしまうのだろう。(この際、みんなに心からお願いする。どうか、子どものころのことを、けっして忘れないでほしい。)

こんな言葉を作品に記したエーリヒ・ケストナーは、自らの作品の対象を「8歳から80歳までの子どもたち」としている。また『トムと真夜中の庭で』でおなじみのフィリパ・ピアス

私たちはみんな、じぶんのなかに子どもをもっているのだ

と書いている。児童文学を手に取るのに遅すぎるなんてことは決してないのである。「わたしたちの物語」として、ケストナーを、カニグズバーグを読もう。



『クローディアの秘密』という大傑作の影に隠れがちだが、『魔女ジェニファとわたし』もまたとりわけお気に入りの1冊だ。主人公はエリザベスとジェニファという2人の女の子。共に友達はおらず、学校から孤立した2人だ。「エリザベスは転校してきたばかりで、ジェニファは学校で唯一の黒人である」という外的な要因もあるのだけれど、物語はそこにフューチャーしない。彼女たちを”ふつう”から遠ざけるのは、半端に高いIQとプライド、そして魂の潔癖さだ。他の子たちのように、親や先生の前だけいい子のふりをするなんていうのは簡単なことだが、彼女たちにとっては、そんなインチキこそが1番許せない。うまくやれないが故に社会に対して常に悪態をついていく。出会うべくして出会った彼女たちは、学校や家とは別の空間に、自分たちだけの法則を作りだしていく。そこでは、ジェニファは魔女で、エリザベスは魔女見習いなのだ。ジェニファの指導のもと、エリザベスは立派な魔女になる為に修行に励んでいく。はじめの1週目は毎日なま卵を食べ、2週目は毎朝お砂糖ぬきのコーヒーを飲む。その後も、焼かないホットドック、なまのタマネギ、茹でないスパゲッティ・・・何やら不完全なものばかりを食べさせられる。見習いを経て、免許皆伝を受けるまでの修行は更に過酷だ。破ってはならない13ものタブーがある。

タブー(1)  ねむるとき、けっして枕を使わないこと
タブー(2)  けっして髪の毛をきらないこと
タブー(3)  夕方の午前七時三十分いごは、けっしてものをたべないこと
タブー(4)  けっして電話をかけないこと
タブー(5)  日曜日に家の中でくつをはかないこと
タブー(6)  けっして赤インクを使わないこと
タブー(7)  けっしてマッチをすらないこと
タブー(8)  けっしてまっすぐのピンや針に手をふれないこと
タブー(9)  けっして結婚式で踊らないこと
タブー(10) ベッドのまわりを三度まわるまでは、けっしてベッドにはいらないこと
タブー(11) けっして病院とおなじがわの道をあるかないこと
タブー(12) けっして朝食まえに歌をうたわないこと
タブー(13) けっして夕食まえに泣かないこと

果たしてこれらを守ることに何か意味があるのだろうか。それが”ない”のである。しかし、この意味のなさがあまりに素晴らしい。その無意味さは、息苦しい社会の価値観を無化させる。これらの修行には意味がないのでは?ということをエリザベスが指摘すると、ジェニファはこう答える。

もしあんたが意味のあるのことばかり求めているようなら、昇格はまだ早いわね

2人の世界においては、無意味さにこそ価値がある。エリザベスは、渋々とこの意味のないルールを忠実に守り、やがて「みんなとちがうこと」を楽しむようになる。寂しさの原因だった孤立が、彼女の大きな力になっていくのだ。はみ出し者たちが、社会一般のルールとはかけ離れた法則の中で、ゆるやかに肯定される。カニグズバーグは”ふつう”とは違うことを許す。いや、そもそも”ふつう”なんてものは存在しないのだ、と言い切るのである。

おかあさんは、わたしのいわゆる「社会性」につてい心配していました。ということは、わたしがお友だちをつくるべきだというのです。おとうさんは、ふつう体温は三十六度五分だけど、三十六度でも健康な人もいる、なんていっていました。その人たちにとってはそれがふつうなのです。「だから、なにがふつうだなんて、だれにもいえるもんか。」と、おとうさんはいいました。

こういった物語に勇気づけられる人がどれほどいることだろう。株、出世、レクサス、ゴルフ、ガールズバーに興味がないおじさんがいていい。そんな社会に疲れたおじさんにも、児童文学は有効なのだ。

*1:化学者、教師、主婦を経ての児童文学作家という異例のキャリアを持つアメリカの作家。2013年に83歳で亡くなっている。

練馬区立美術館『サヴィニャック パリにかけたポスターの魔法』

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東京都の練馬区立美術館でレイモン・サヴィニャックの大きな展示会が始まった。正直なところ、「いまさらサヴィニャックかぁ」なんてことも思わないでもなかったのだが、これが大いに楽しんでしまった。サヴィニャックの弾けんばかりのポップネスはとびきりに楽しい。そして、そこにまぶされたシニカルとユーモア、物事の本質を大胆かつ繊細に捉えるイメージの跳躍は今なお有効で、観る者の心を掴んで離さないのだ。


練馬区立美術館は西武池袋線中村橋駅*1から徒歩5分。都心を外れた立地だからか、日本でも人気の高いサヴィニャックにも関わらず、客足はまばらだ。おかげで、じっくりと展示を眺めることができて、実に快適。その上、都心の美術館以上の充実した内容なのである。リトグラフによる美しい発色のポスターは、3メートル以上のビックサイズのものまで!貴重な原画やデッサン画を含む展示は全部で約200点。2011年にギンザ・グラフィック・ギャラリーで開催された『レイモン・サヴィニャック展』が50点とのことなので、今回の展示の規模の大きさがうかがえるだろう。作品の時系列順ではなく、「動物」「嗜好品」「子ども」といったようにテーマごとに区切られた展示形式は、集中力をグッと高めてくれる。練馬区立美術館で4/15(日)まで開催、その後は宇都宮、三重、兵庫、広島を巡回するそうです。


サヴィニャックがポスターとして手掛ける媒体は、石鹸、ソーダ水、チョコレート、自動車、冷蔵庫・・・といった大量生産される商品だ。それらの広告はやはり大量に刷られ、街のいたるところに貼られていく。今回の展示には、サヴィニャックのポスターが貼られたパリの光景を収めた写真もいくつか内包されている。ちょっとしたエスプリを効かせることで、無機質になりかねない景観を鮮やかに彩っている。改めて魅力を感じたのは、サヴィニャックのその都会的なセンスだ。そのアーバンな感性は、資本主義を謳歌する上で発生する”うしろめたさ”のようなものを解放してくれる。
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たとえば、このマギーブイヨンのポスターはどうだろう。自らの半身で煮込んだスープの香りを実に満足気に嗅ぐ牛。私たちが飲むスープは牛の死体の上に成り立っているのだという本質をつきつけられつつも、その牛のわざとらしいほどの”誇らしさ”にどこか救われてしまう。まったくをもって人間都合の勝手な解釈なのだけども、そのオプティミズムは都市を生き抜く秘訣なような気がしないでもない。というのは大袈裟かもしれない。やはりサヴィニャックの魅力は底抜けの明るさだ。
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果たしてこんなにも楽しいポスターに触れて、ペリエを飲みたくならない人なんているのだろうか!?まったくウキウキしちゃうぜ。

*1:準急や急行は止まらない。余談だが、かつて保坂和志はこの街で暮らしていて、彼のデビュー作『プレーンソング』は中村橋での出来事を綴った小説なのだ。また槇原敬之山田稔明(GOMES THE HITMAN)も若かりし頃、中村橋で暮らしていたらしい。と言っても、中村橋が文化度の高い街なのかというと、決してそんなことはない。本屋は1軒あるかどうかだし、昔はいくつかあった古本屋もすべて潰れてしまった。しかし、この街には素敵な図書館と美術館があります。2つは合築されていて、その間には動物モチーフの大きなアートが点在する緑地スペースがある

今井一暁『ドラえもん のび太の宝島』

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川村元気という海賊による略奪。奪われたのは、藤子・F・不二雄ドラえもん』、ロバート・ルイス・スティーヴンソン『宝島』という児童文学が誇る偉大なフォーマットだ。今作のベースにスティーヴンソンの『宝島』が置かれる必然性がまったく理解できなかった。

映画ドラえもん のび太の南海大冒険 [DVD]

映画ドラえもん のび太の南海大冒険 [DVD]

ドラえもん のび太の南海大冒険』(1998)は、のび太が『宝島』を夢中になって読み、宝探しに強い憧れを持つところから始まる。しかし、今作は出木杉への対抗心から、宝探しを始めようとするわけで、なんというかピントがズレている。果てには、地球エネルギーという大きなSFに飛躍し、『宝島』のマインドは希薄になっていく。また、親子の絆の描写に大きく時間を割いたゆえ、キャプテンシルバー率いる海賊の書き込みがないがしろにされている。どうして現代に海賊がいるのか、何故あんなにも高度な文明を有しているのか、過去の遺産である財宝の価値・・・そういった”すこし不思議(SF)”に対して納得のいくハッタリを埋め尽くすことに注力する、それが藤子・F・不二雄という作家だった。その作業こそが、わたしたちを日常から非日常へと連れ出すための「どこでもドア」だったのではないだろうか。それが設計されていない今作におけるSFはどうにも足元がおぼつかない。



川村元気を戦犯に指名してしまうのはフェアではないかもしれない。わたしたちの”感動したがり”が、あらゆるエンターテインメントを薄っぺらいものにしてしまっていて、その余波が『ドラえもん』にも及んでいるのだ。『STAND BY ME ドラえもん』(2014)はその最たる例だろう。

大人は絶対に間違えないの?
僕たちが大事にしたいと思うことはそんなに間違っているの?

当たり前だろ・・・だって僕はパパの息子なんだから

今作においても、こういった如何にもな台詞にどうしても違和感を覚えてしまう。ここに挙げた以外にも、所謂メッセージ的なものが飛び交い、混線し、そのすべてを味気ないものにしている。そして、感動的な台詞に辿り着くためにお膳立てされた物語は、どうしても貧しい。そんな言葉などなくとも、のび太たちの太古の世界や遥か彼方の宇宙での血沸き肉躍る冒険における決断やアクションの数々は、家族や友人の尊さ、自然や動物への敬意、その他多くのことをわたしたちに伝えてきたはず。



今作は歴代興行収入を更新する勢いの大ヒットを飛ばしているらしい。その一因として星野源による主題歌『ドラえもん』が貢献しているそうだ。たしかにいい曲で、劇場で子どもたちがサビを一緒に口ずさんでいる光景には思わず涙腺を刺激させられた。しかし、やはりこの曲も、わたしたちの”感動したがり”が作り出してしまったようなところがあって、『ドラえもん』という作品の魅力の一要素でしかない”感動”がふんだんに拾い上げられている。

機械だって 涙を流して
震えながら 勇気を叫ぶだろう

中越しの過去と 輝く未来を
赤い血の流れる今で 繋ごう

何者でなくても世界を救おう

う、うるせぇ。ここで、星野源の『ドラえもん』においても間奏でサンプリングされる『ぼくドラえもん』の歌詞を眺めてみよう。作詞は藤子不二雄だ。

あたまテカテカ さえてピカピカ
それがどうした ぼくドラえもん
みらいのせかいの ネコがたロボット
どんなもんだい ぼくドラえもん
キミョウ キテレツ マカフシギ
キソウテンガイ シシャゴニュウ
デマエ ジンソク ラクガキ ムヨウ
ドラえもん ドラえもん
ホンワカパッパ ホンワカパッパ
ドラえもん

そうこなくっちゃ!と震える筆致である。「それがどうした ぼくドラえもん」「ホンワカパッパ ホンワカパッパ ドラえもん」、こういったマインドが貫かれたドラえもん映画の新作が待たれる。

『あいのり:Asian Journey』の異様な魅力について

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『あいのり:Asian Journey』がおもしろい、呆れるほどにおもしろい。ここ数日で食い入るようにして、Netflixで配信済の約20のエピソードを観終えてしまった。必要ないとは思いますが、『あいのり』という番組について念のため説明しておきます。「ラブワゴン」と呼ばれるピンクにカラーリングされた車に乗った男女7人が、様々な国を旅する。その中で繰り広げられる恋模様を見つめていく恋愛観察バラエティ。スタジオのタレントや視聴者は、そこで繰り広げられる出来事のすべてを俯瞰することができ、更にはメンバーの心情や過去のトラウマすら把握できてしまう。すべてのことが手にとるようにわかる。これはまさに神である。しかし、ラブワゴンのメンバーたちは、そんな神々の思考をいとも簡単に飛び越えてくる。突拍子もつかないような行動に打って出ては、わたしたちを驚かせるのだ。まさに筋書きのないドラマ。その行動に対して、「なぜそんなことを言ってしまうんだ・・・」「タイミングを考えろ!」など、呆れたり、笑ってしまったりするともあるのだが、それはあくまで神の視線を手に入れているから。当の本人たちにとっては、それがどんなに小さなことであろうとも、どこまでも真剣なぶつかり合いなのだ。その乖離がたまらなくおもしろい。また、そういった”予想だにしなさ”は、時に涙を誘う。プログラミングされることのない人間の多様性がそこにはあり、もっと大袈裟に言えば、”生命の愛おしさ”のようなものさえ感じてしまうからだ。すべてを掌握している神をも裏切る人間の固有性。それはちっぽけであるからこそ美しい。これぞ人間ドキュメンタリーではないか。「他人の恋愛なんて・・・」という方にこそ、ぜひ観て頂きたい。


かく言う私も、『あいのり』復活の報が流れた当初は、食指が動かずスルーを決め込むつもりだった。MC陣にオードリーとベッキーという考え得る最良のキャスティングをもってしてもである。日常で普通に恋愛ができない人がたくさんいるこの時代に、なんでリア充(≒社会とうまくやっていけそうな人達)の恋愛を見せられなければならないのだ!というのが言い分だった。1999年の番組開始当初は楽しく観ていた。久本雅美の好感度が何故か異様に高かった時代である。恋愛バラエティというものに抵抗がなく、『ウンナンのホントコ!』での「未来日記」なども心から楽しんでいた。しかし、思春期が色濃くなるにつれ、気がついてしまったのだ。自分がどう考えてもモテない側の人間だということに。『あいのり』にも稀に、モテない設定の人物がたまに出てきた。しかし、所詮はTVショーなので、なんだかんだで彼らは洗練されている。なにせラブワゴンに搭乗するまでには厳正なオーディションを経ている。テレビに映るのは、社会から許された者しかいないのである。慌ててテレビのスイッチを消した。とは言え、恋愛戦線にはとても参加できそうにない。共学校ではなかったため、まともな片想いすらできない。私はこのままずっと一人で生きていくのだ(こういった思考の飛躍が思春期というやつだ)。世間一般で言うところの普通のレールから外れてしまったことが苦しくて仕方がなく、恋愛とは何か別の「生きるため」の物差しを探そうと、あらゆるカルチャーを貪り食っていくのであった。そんな思春期の経験は今なおヘドロのようにこびりつき、『あいのり』という番組を私から遠ざけていた。


しかし、それは間違いであった。時代の変化で『あいのり』も変わった。あいのりフリークのベッキーがスタジオで何度も口にしている。確かに、復活した『あいのり』はちょっと一味違う。登場する男性メンバーのほとんどが草食系、これまでに恋人がいたことがないというようなメンバーがラブワゴン内にゴロゴロいる。彼女いない歴28年のシャイボーイ*1というメンバーが旅の途中で、こう漏らした。

恋愛をしてないと馬鹿にされるのはなんでですかね・・・

この恋愛困難な時代に対する、鋭い批評性を持った言葉である。恋愛をしなくてはならないなんてことは決してない。しかし、それでも人はいとも簡単に恋に落ち、その姿は、心のありようは、たまらなく美しい。それをこの番組は教えてくれる。この時代における『あいのり』というのは「恋人を見つける旅」ではなく、「誰かを愛する/愛される人間になるための旅」なのだろう。



恋愛要素以外もとにかく充実している。演出・編集もキレキレ。ナレーション原稿もほどよくシニカルで、練られている。世界各国の事情と比較することで日本という国が抱える問題を浮き彫りにしていくという教育的プラスアルファも、押し付けがましくなく的確だ。そして、24時間行動を共にして異国を旅するという異常空間がもたらす濃縮された青春感。そこで交わされる人と人の生々しいやりとりの数々に、思わず涙腺を刺激されてしまう。もちろんスタジオの空気も素晴らしく、この番組の価値を底上げしている。たとえば、メンバーが不倫経験の過去を語った後のスタジオ。

若林:不倫専門家として、どうですか?
ベッキー:首絞めていい?

オードリー若林が恋愛下手というポジションをとりつつ、ベッキーに恋愛を語らせておいて、ときおりゲス不倫ネタでマウントをとる流れはもはや様式美である。ベッキーに対して終始やんわりと流れている「誰が語ってんねん」という空気も笑ってしまうのだけどそれはさておき、タレントとしての総合能力の高さに改めて唸らされてしまう。若林とベッキーがいれば、VTRに対して視聴者が抱くツッコミポイントをすべて的確に拾ってくれる。この気持ちよさ。「いらんだろ」と思っていたゲストの河北麻友子大倉士門の2人も今では欠かせないピースである。もはやあの2人以外のゲストなんて受け付けれらません。余談ですがスタイリストの癖がすごくて、若林が毎回変な服を着ているのもおもしろいです。とにもかくにも『あいのり:Asian Journey』は必見だ。Netflixに未加入の方は、フジテレビの毎週土曜0:55~1:25(注意:金曜深夜です)をチェックお願い致します。まだ間に合います。

*1:彼の放つ強烈な天使性は番組最大の魅力かもしれない。でっぱりん、アスカ、裕ちゃんも最高

伊藤万理華×福島真希『はじまりか、』

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昨年末に開催された個展「伊藤万理華の脳内博覧会」にて公開されたショートムービー『はじまりか、』がYouTube上で閲覧が可能となった。掛け値なしに素晴らしい8分30秒なのだ。伊藤万理華によるファンやメンバーに対するストレートな愛のメッセージをして*1、「彼女のファンには感涙ものだろう」という感想もわかるのだけども、この『はじまりか、』という作品はなにかもっとこう普遍的な魅力を兼ね添えていやしないだろうか。乃木坂46というグループにまったく興味がないという方にもぜひともご覧いただき、この感動を分かち合いたく思い、少しだけ言葉を添えたい。


まずは、伊藤万理華というアイドルのヒストリーを少しだけ記しておく。2011年の乃木坂46結成当時からのメンバーであり、2017年末をもってグループを卒業している。人気メンバーと言ってしまっていいと思うのだが、おそらく乃木坂46ファン以外には、顔と名前が一致しない存在かもしれない。ムービー内の言葉を借りるのであれば「前から3列目のだいたい端っこ/真ん中にはなれなかったけど/ここが私らしいかなって」というように、センターやキャプテンといった立ち位置ではなく、メディアで目にする機会は多くはなかった。しかし、その類稀なる存在感と表現力は、いつだって観る者の目を惹きつけてきた。歌声は不安定(だが、味がある)で、ダンスの実力は随一。そして、個展を開催するほどの芸術家タイプであり、趣味に「苔 石 鉱物」を挙げるなど、グループ内において最もサブカルチャー的感性をくすぐるメンバーだったとも言える。CDの特典映像として収録されている個人PVでもその世界観はいかんなく発揮されており、「個人PVの女王」とまで冠されてきた。とりわけ、福島真希とタッグを組んだ作品群(『まりっか’17』『伊藤まりかっと。』など)は評価が高く、この『はじまりか、』はその一連のタッグの最高のフィナーレでもある。とにもかくにも、ムービーを観てみて欲しい。

伊藤万理華が、絶え間ないリズムに乗り、ラップとポエトリーの中間のような発話で詩を紡ぐ。乃木坂駅周辺のロケーションを舞い踊りながら、軽やかに移動していく。撮影は1カット長回しだ。突発的なダンスとは無関係に続いていく街の営み、連綿と刻まれていく生の一回性。長回しと”青春”の相性の良さに関しては、いまさら言及するまでもないだろう。リリックの序盤は、「私の青春」と語られるアイドル活動の葛藤が綴られていく。

15の時に乃木坂の オーディションを受けた
まさかの合格!?ハッピー!も束の間
選抜発表で名前は 呼ばれなかった
どうしたらいい?何が足りない?
焦りは空回り まわりまわりぐるぐる巡り


誰かが付けた順番に 泣いて眠れない夜もあった
周りを見ればみんなキラキラ 羨ましいないいないいな
でも違うんだ それはあの子だから出来ること
私にはできない ひとりひとりの眩しい輝き
ようやく認めた時に 何かが開けた!

それは”青春”という期間の普遍的な悩みのようでもある。自分という在り方の固有性を認め、その悩みを脱却していく。そして、リリックはありのままの自分を肯定してくれたファンへの感謝へと移行していく。

ファッションも趣味も全然 アイドルぽくなくて
こんな変な私だけど 見つけてくれてありがとう
どうして私を選んだの?
どこから巡って辿り着いたの?
どうしてそんなに優しく笑ってくれるの?
あの時あなたが手を 差し伸べてくれた
あなたの言葉にたくさん 支えられてきた
見ていてくれた
ブログ読んでくれた
コメントくれた
声援くれた
りっかタオル
緑と紫のサイリウム
ありがとうありがとう 全部全部ありがとう
会いに来て手を繋いでくれて ありがとう

アイドルとファンの間で結ばれる、か細くて小さい、でも確かな関係性。一度でもアイドルを応援したことのある者であれば、涙を禁じ得ないエモーションが、たしかにある。しかし、ビートが熱を帯びていき、流麗なストリングが空間を支配し始めると、そのミクロな関係性は、何か大きな流れと交差し始める。「見つけてくれてありがとう」という言葉が、より大きな力を纏いはじめるのである。

緑と紫のサイリウム
星みたいですごく綺麗だった
広い宇宙にあなたと私
ここで出会えた奇跡に ありがとう

そう、その詩情は”宇宙”へと広がっていくのだ。広い宇宙に、たった1人ぼっちで生まれて死んでいく寄る辺なさ。そんな人間という生き物の持つ”寂しさ”が、「1人のアイドルのグループからの卒業」という現象と結ばれていく。だけど、遠くのほうで誰かが、見てくれている気がする。その「終わり」を最後まで、見届けてくれる人がいる。もしそうであるならば、伊藤万理華(≒わたしたち)の、儚い生と死は、光の中で大袈裟に祝福されてしまうだろう。ハッピー・バース・デイ&ハッピー・デース・デイ。演劇に関心がある方であれば、お気づきだろう。この『はじまりか、』というショートムービーは、劇団ままごとの『わが星』(第54回岸田国士戯曲賞受賞作)という作品と、ラップとダンスというフォーマットを含め、多分にフィーリングを共にしているように思う。
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『わが星』では、”ちーちゃん”という1人の少女の一生が、地球の誕生と滅亡とに重ね合わせられている。そして、その一生を遠くから望遠鏡で観察している”誰か”がいる。眠りに着く前のたまらない寂しさの中で、ちーちゃんは言う。

ねぇ、手、つないでもいい?

アイドルビジネスの悪しき象徴になってしまった「握手会」という現象が、あまりに詩的に生まれ変わってしまう!会いに来て、手を繋いでくれて ありがとう。そして、差し出されたその手は、途絶えることのないそのリズムの上で、私たちをダンスへと誘う。定められた終わりまでの束の間の永遠、どうか私と踊りませんか?そんな風にして、伊藤万理華は今日も跳ねていくのだ。

*1:「大好きな、大好きな、大好きなメンバー、みんな凄くない?最高じゃない?」の振り付け、最高!!!