青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

E・L・カニグズバーグという児童文学作家

f:id:hiko1985:20180323120329j:plain
E・L・カニグズバーグという児童文学作家*1に夢中だ。『クローディアの秘密』『魔女ジェニファとわたし』『ベーグル・チームの作戦』『ティーパーティーの謎』・・・・どの作品を読んでも夢のように素晴らしい。

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

魔女ジェニファとわたし (岩波少年文庫)

魔女ジェニファとわたし (岩波少年文庫)

ベーグル・チームの作戦 (岩波少年文庫)

ベーグル・チームの作戦 (岩波少年文庫)

ティーパーティーの謎 (岩波少年文庫 (051))

ティーパーティーの謎 (岩波少年文庫 (051))

これから折に触れて読み返すであろうという確信でいっぱいだ。カニグズバーグの筆致の秀逸さを端的に伝えるため、ちょっとばかりの引用を許して欲しい。

むかし式の家出なんか、あたしにはぜったいできっこないわ、とクローディアは思っていました。かっとなったあまりに、リュック一つしょってとびだすことです。クローディアは不愉快なことがすきではありません。遠足さえも、虫がいっぱいいたり、カップケーキのお砂糖が太陽でとけたりして、だらしない、不便な感じです。そこでクローディアは、あたしの家出は、ただあるところから逃げ出すのではなく、あるところへ逃げこむのにするわ、と決めました。どこか大きな場所、気もちのよい場所、屋内、その上できれば美しい場所。クローディアがニューヨーク市メトロポリタン美術館に決めたのは、こういうわけでした。


『クローディアの秘密』より

図書館は、ひそひそ話をするところです。ジェニファは、まるでやかんからでる湯気みたいなシュシュという音で、すばらしく上手にひそひそ話ができました。


『魔女ジェニファとわたし』より

パーティーの土曜日は、目をさました瞬間から、ついてないことばかりでした。すべてのことが。第一に、その日はバタースコッチの日でした。バタースコッチの日は、わたしはいつも気分がよくないのです。町にはキャンディ工場がありました。そこでは、毎日、香りのちがうものをつくっていました。町じゅうが、においのついた空気をすっていたわけです。オレンジは気もちがいいし、チェリーやライムはほとんど気になりません。ハッカはおいしいくらいです。けれどバタースコッチのにおいは息苦しいのです。


『魔女ジェニファとわたし』より

クーキーはふり返ってにこっとした。クーキーが笑うと、顔に夜明けが来たみたいだ。はじめは細い光のすじだが、すぐに顔じゅうにその光が広がる。夜明けを告げるみたいだ。たしかに口は大きすぎるけど。
ぼくは袋に手をつっこんで持って来たものを出した。クーキーが手をのばし、その手の出し方を見て、ぼくは何気なく持ってきたものをするりとかの女の人さし指にはめた。
「ベーグルだよ。」ぼくはいった。「食べるものだよ。」
クーキーはぼくを見上げて、じっとぼくを見ながら人さし指に通したままのパンをかじりはじめた。


『ベーグル・チームの作戦』

美術館への家出、図書館でのひそひそ話、バタースコッチの日の息苦しさ、指に通されたままかじられるベーグル・・・あぁ!こんな描写が一ヵ所でもあれば、それはもう忘れ難い本になってしまうわけだが、おそるべきことにカニグズバーグの文学はこういった素晴らしさで満ちている。脳みそが痺れるようにウットリとしてしまうではないか。



カニグズバーグが書く物語の舞台はえてして都市の郊外に設定されている。そして、中流家庭で何不自由なく育つも、自意識を複雑にこんがらがらせてしまった子ども達が主人公だ。彼女たちについて、訳者の松永ふみ子はこう記している。

生まれた時から快適な環境に慣れ、それをあたりまえのこととして受けとっている、洗練された、都会的なちょっと気むずかしい子どもたちです。情報たっぷり、知識いっぱい、めったなことにはだまされません。<中略>人生についてまだ何も知らないのに、何でも知っていると思いこんでいる。

カニグズバーグの初期の3作の舞台は1960年代。しかし、そこに登場する子ども達は、現代の”わたしたち”にどうにもそっくりではないか。大人が子ども向けの作品に夢中になっていると、「それは子どもの為のものですよ」なんてしたり顔で指摘してくる人がいる。そういう人というのは”子ども”であった自分というのを、現在の自分とはまったく別人か何かのように考えているのかしら。児童文学に描かれている”切実さ”が、大人にとっては「取るに足らないこと」だなんて思うのは大間違いなのだ。

どうしておとなは自分の子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解出来なくなってしまうのだろう。(この際、みんなに心からお願いする。どうか、子どものころのことを、けっして忘れないでほしい。)

こんな言葉を作品に記したエーリヒ・ケストナーは、自らの作品の対象を「8歳から80歳までの子どもたち」としている。また『トムと真夜中の庭で』でおなじみのフィリパ・ピアス

私たちはみんな、じぶんのなかに子どもをもっているのだ

と書いている。児童文学を手に取るのに遅すぎるなんてことは決してないのである。「わたしたちの物語」として、ケストナーを、カニグズバーグを読もう。



『クローディアの秘密』という大傑作の影に隠れがちだが、『魔女ジェニファとわたし』もまたとりわけお気に入りの1冊だ。主人公はエリザベスとジェニファという2人の女の子。共に友達はおらず、学校から孤立した2人だ。「エリザベスは転校してきたばかりで、ジェニファは学校で唯一の黒人である」という外的な要因もあるのだけれど、物語はそこにフューチャーしない。彼女たちを”ふつう”から遠ざけるのは、半端に高いIQとプライド、そして魂の潔癖さだ。他の子たちのように、親や先生の前だけいい子のふりをするなんていうのは簡単なことだが、彼女たちにとっては、そんなインチキこそが1番許せない。うまくやれないが故に社会に対して常に悪態をついていく。出会うべくして出会った彼女たちは、学校や家とは別の空間に、自分たちだけの法則を作りだしていく。そこでは、ジェニファは魔女で、エリザベスは魔女見習いなのだ。ジェニファの指導のもと、エリザベスは立派な魔女になる為に修行に励んでいく。はじめの1週目は毎日なま卵を食べ、2週目は毎朝お砂糖ぬきのコーヒーを飲む。その後も、焼かないホットドック、なまのタマネギ、茹でないスパゲッティ・・・何やら不完全なものばかりを食べさせられる。見習いを経て、免許皆伝を受けるまでの修行は更に過酷だ。破ってはならない13ものタブーがある。

タブー(1)  ねむるとき、けっして枕を使わないこと
タブー(2)  けっして髪の毛をきらないこと
タブー(3)  夕方の午前七時三十分いごは、けっしてものをたべないこと
タブー(4)  けっして電話をかけないこと
タブー(5)  日曜日に家の中でくつをはかないこと
タブー(6)  けっして赤インクを使わないこと
タブー(7)  けっしてマッチをすらないこと
タブー(8)  けっしてまっすぐのピンや針に手をふれないこと
タブー(9)  けっして結婚式で踊らないこと
タブー(10) ベッドのまわりを三度まわるまでは、けっしてベッドにはいらないこと
タブー(11) けっして病院とおなじがわの道をあるかないこと
タブー(12) けっして朝食まえに歌をうたわないこと
タブー(13) けっして夕食まえに泣かないこと

果たしてこれらを守ることに何か意味があるのだろうか。それが”ない”のである。しかし、この意味のなさがあまりに素晴らしい。その無意味さは、息苦しい社会の価値観を無化させる。これらの修行には意味がないのでは?ということをエリザベスが指摘すると、ジェニファはこう答える。

もしあんたが意味のあるのことばかり求めているようなら、昇格はまだ早いわね

2人の世界においては、無意味さにこそ価値がある。エリザベスは、渋々とこの意味のないルールを忠実に守り、やがて「みんなとちがうこと」を楽しむようになる。寂しさの原因だった孤立が、彼女の大きな力になっていくのだ。はみ出し者たちが、社会一般のルールとはかけ離れた法則の中で、ゆるやかに肯定される。カニグズバーグは”ふつう”とは違うことを許す。いや、そもそも”ふつう”なんてものは存在しないのだ、と言い切るのである。

おかあさんは、わたしのいわゆる「社会性」につてい心配していました。ということは、わたしがお友だちをつくるべきだというのです。おとうさんは、ふつう体温は三十六度五分だけど、三十六度でも健康な人もいる、なんていっていました。その人たちにとってはそれがふつうなのです。「だから、なにがふつうだなんて、だれにもいえるもんか。」と、おとうさんはいいました。

こういった物語に勇気づけられる人がどれほどいることだろう。株、出世、レクサス、ゴルフ、ガールズバーに興味がないおじさんがいていい。そんな社会に疲れたおじさんにも、児童文学は有効なのだ。

*1:化学者、教師、主婦を経ての児童文学作家という異例のキャリアを持つアメリカの作家。2013年に83歳で亡くなっている。