青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』2話

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音(有村架純)の”つっかえ棒”であったのは母の手紙、そして遺灰の入った缶。遺灰は1話において無残にも捨てさられてしまったわけだが、その缶の持つ“つっかえ棒”のイメージが、練(高良健吾)の手渡した桃の缶詰として変容している。映像作品としてのレベルが飛び抜けて高い。脚本の坂元裕二の素晴らしさは言うまでもないが、やはり演出の並木道子の存在は極めて重要だ。例えば、相手を変えて二度繰り返される”おんぶ”での歩行は、一度目は下り坂、二度目は上り坂で撮られている。映像で語るというのはこういう事だ。そして、小道具や衣装の充実。練のマジックテープの財布にもやられてしまったが、やはり重要なのはカーキーのMA-1の下にパーカーという練のファッションのルーティン。1話で着用していたグレイのパーカーに加えて、どうやらホワイト、ネイビー、ダークグレイなどのバリエーションを揃え、着回しているようである。これを単に「練はパーカーが大好きなのだな」と処理する事も可能なのだけども、それではつまらない。ここでは、首元に広がるパーカーのフード、それは”天使の輪”なのだ、と断定してしまおう。では、1話で提示された音の「ファッションのこだわり」とは何だったろうか。それは、首回りに輪を描くマフラーであったはずで、衣装を通じて、この物語の主人公である練と音が天使であるという演出を施している。通常頭の上に掲げられるはずの天使の輪が、首元にまで垂れ下がってきている。この2人の天使は、この東京という街で疲弊しているのだ。

そう無邪気な天使さえも殺されてしまう時代で

Dragon Ashの代表曲「陽はまたのぼりくりかえす」の一節。人の良さからか、ひたすらに搾取され、傷つき続ける天使たち。そんな2人の生活のリズムを淡々と描きながらも、貧困格差、東京一極集中、介護人材不足、ブラック企業など現代社会の抱える問題と彼らの関係性を丁寧に構築していく。その筆致からは『北の国から』も『若者たち』も野島信司も、全部俺が背負ってやる、と言わんばかりの凄みを覚えるわけですが、『最高の離婚』に続いて八千草薫が登場するわけで、坂元裕二はやはり山田太一なのだ、と想い直したい。ちなみに『最高の離婚』の八千草はプロレスファンでしたが、今作の八千草の部屋にはアメフトのポスターやユニフォームが散見している。


文字通りに息苦しなるドラマメイク。しかし、どんな過酷な状況に置かれようとも、常に優しく正しい選択を行おうとする2人の健気さには胸打たれる。「雪が谷大塚」という小さな町で同じように暮らしているにも関わらず、電車通勤とバス通勤、北口と南口、といったような些細な差異で徹底的にすれ違い続けていく2人。その様はまさに「神様のきまぐれな御手」といった感じなのだけども、彼らが懸命に掴み続けようとする「正しさ」が、再び2人の”孤児”を引き合わせる。昨年公開された『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の新たな主人公レイとフィンのボーイ・ミーツ・ガールの構造と奇しくも共鳴しているわけだが、それは完全に余談なので置いておこう。
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そんな事よりも、あのコインランドリーにおける椅子とパンフレットがもたらす練と音の反復を観たか。片方は不在のはずの2人が、時間を超越して一緒に”居て”しまっている。しかし、それに気付いているのは視聴者である私達だけ、という胸が一杯になるような切なさ。そして、何より印象的なのは、1話での“橋”といい、今話の“横断歩道”といい、今作の主人公2人は”対岸”という構図を作りながらも、それをやすやすと渡っていく点にあるだろう。


無神経な悪意、無意識な暴力、平行線を辿る会話、すれ違い、わかりあえなさ。確かに坂元裕二はそういったものを強烈に炙り出す作家だ。作品を重ねるごとにその傾向は強まっている。しかし、誤解しないで欲しいのは、坂元裕二は「届かない手紙」の作家ではないという事だ。彼が一貫して描き続けているのは「手紙は必ず届く」という事で、まるでそれを証明せんが為に、いくつもの物語を紡いでいるように映る。2話ラスト、井吹朝陽(西島隆弘)が認知症患者の老女にささやく。

星を見るのは好きですか。僕はね、星が好きです。
一万年っていう長い年月を経て届く星の光を見ていると何だか優しい気持ちになれます。人の命や想いも長い時を超えてどこかへ届いていくんじゃないかなって思います。