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青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

木皿泉『富士ファミリー』

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木皿泉の脚本には言葉に出来ない素晴らしさというのがある。例えば、幽霊からの伝言で発見された故人のメモ、に書かれていた「ケーキ、懐中電灯、四葉のクローバー、光太郎、ストロー、枕、コーヒー」という単語を切り取り、残された人々でくじ引きをするというあらすじ。幽霊という強烈なフィクションが介入しながらも、ほのぼのとした庶民感が、入り混じる事で、どこでもない場所が立ち上がってしまう。そんな場所で「”懐中電灯”は地味だね」とか「”四葉のクローバー”はちょっとうれしい」だとか、「”ケーキ”を引くのは羨ましいな」だとか言い合う、この瑞々しさ!知らない誰かが食べた天ぷら蕎麦の器に貼り付いた海老天の尻尾を見て、月美(ミムラ)が姉の死を想うシーンなんてのも本当に良いわけだけど、この良さをどう言葉で説明できよう。確かに言えるのは、この脚本には「生活者としての血が通っている」という事だろう。この筆致だけで、木皿泉が頭1つ飛び抜けた脚本家であるという事実を再認識する次第だ。


血の繫がらない者同士が一つ屋根の下で暮らす(『すいか』『昨夜のカレー、明日のパン』)、不老不死の吸血鬼(『すうねるところ』)、道端に捨てられたアンドロイド(『Q10』)など、これまでの木皿作品の記憶が散りばめられている。そこに薬師丸ひろ子小泉今日子片桐はいりミムラ仲里依紗高橋克実、細田善彦といったキャスティングが合いまって、これまでの集大成というムードに満ちているではありませんか。顕著なのは、『すいか』における「私みたいなものがいていいのでしょうか?」という問いに対する「いて、よし」というあのまっすぐな肯定だろう。今作ではその肯定のあらゆる変奏が鳴り響き、「ていうか、もういるし」という領域にまで突入している。そう言い放つのは人ならざるものであるマツコロイド。彼女の

意味があろうがなかろうが、既に私たちはここにいる
その事の方が重要なんじゃないかしら

という言説は、笑子バアさん(片桐はいり)同様に、多くの人々に福音として鳴り響くのではないだろうか。



しかし、木皿泉は奇妙な作家である。

この人間関係しかないとか、この場所しかないとか、この仕事しかないとかそう思い込んでしまったら、たとえ、ひどい目にあわされても、そこから逃げるという発想を持てない。呪いにかけられたようなものだな。逃げられないようにする呪文があるのなら、それを解き放つ呪文も、この世には同じ数だけあると思うんだけどねぇ

これは処女小説『昨夜のカレー、明日のパン』

昨夜のカレー、明日のパン

昨夜のカレー、明日のパン

の一節なのだが、「あなたはここにいていいのだ」と書き続ける一方で、留まり続けることを”呪い”とまで言い切ってしまう。『野ブタ。をプロデュース』の忌野清志郎の出演や『Q10』1話における「愛しあってるかい?」という叫びを持ち出すまでもなく、木皿泉は実に”ロックンロール”な作家なのだ。人が転がり続け、変化する事を肯定する。「いてよし」という肯定しながらも、「転がるように変わっていけ」というメッセージを発信する。

人は変わってゆくんだよ。それは、とても過酷なことだと思う。でもね、でも同時に、そのことだけが人を救ってくれるのよ。

しかし、やはり転がり続けるのは過酷だし、変化というのはとても勇気のいること。安心して転がり回るには、しっかりとした支点は必要ですよね。というのが、今回の『富士ファミリー』というドラマである。その支点というのは、

私が代わりにここに居てあげる。だからお前は、どんどん転がるように変わっていけ

と言ってくれる存在。優しく厳しく、私達を見守り続けてくれる”何か”だ。このドラマで言うと、それは富士山であり、そのイメージを背負った鷹子(薬師丸ひろ子)であり、幽霊となったナスミ(小泉今日子)である。そして、”月”というモチーフ。これが見事だった。決して言葉では説明されないのだが、ナスミの残したメモに記されていた「懐中電灯」を鷹子が雅雄(高橋克実)の禿げ頭にかざした時、月が浮かび上がる。その月というのは、富士山であろうと疲弊する鷹子を更にその上から見守り続け存在である。一連のシーンが終わった後に、1ショットだけ挿入される夜空に浮かぶお月様。実にリリカルに、そして、さりげなく視覚的に処理されており、木皿泉の脚本家としての成熟を想い知らされた。